コリアンモンスター
7,破滅に向かう家族
一九九三年、バブルと呼ばれた異常な好景気はあっさりと終焉に向かって加速していった。考えてみれば当然で、土地や株価が天井知らずで上がり続けるなんて事は普通はありえない。
風船が萎むように急速に悪くなっていく景気に左右されたのかどうかは分からない、もっと前から聚楽は下降線を辿っていて、この頃には十三店舗あった店は赤羽の一店舗だけになり、家には借金取りが押しかけてくるようになるまで事態は悪化していた。
仲の良かったオモニとアボジは顔を合わせては喧嘩するようになったが最近アボジは殆ど家に帰ってくる事もなくなった、どこで何をしているかは不明だが夫婦喧嘩を見せられるよりは幾らかマシで、宣美はアボジについて何も聞かなかった。
高校三年生になった宣美は大学受験を控えていたが、この頃には進学することは諦めていた、奨学金制度を利用してまで大学で学びたい事もなかったし、できれば働いて家計を助けてあげたかった、教師からは勿体ないと説得されたが意思は変わらなかった。
「ただいま、あれ、オンニ早いね」
中学二年生になった麗娜はすっかり大人びて、幼い頃の美貌そのままに美しい容姿になっていた、彼女の希望で学校は公立の中学校だ、お金がかかる私立を選ばなかったのは我が家の経済状況を彼女なりに把握しているのかも知れない。
「今日は開校記念日で休み、ご飯どうする?」
「あ、ごめん、彼氏と約束があるから」
親指を立ててウインクした、まったく、最近の中学生は進んでいる。いや、自分が遅れているだけか。十八歳になったというのに今だに彼氏の一人も出来たことがない。
言い訳をするならば片思いの男性がいるからだ、もう五年になる。警察官をしている松本亮二は赤羽の交番を移動、いや昇進と言うのだろうか、制服を着る警察官からスーツを着る刑事になったと聞いた。それでも聚楽には顔を出してくれるのでタイミングが合えば話すこともできる。
「ちょっと麗娜、スカート短かすぎない」
「いいの、こうちゃんが短い方が好きなんだもん」
こうちゃん、どうやら件の彼氏のようだが名前はもちろん、同級生なのかどうかも知らなかった、さして興味もない。
「お姉ちゃんもはやく彼氏作りなよ、亮二はもう諦めてさあ」
その言葉は無視してキッチンに向かった、夕飯の準備に取り掛かる、最近は家族の夕飯を作るのは宣美の役目だ。帰ってくる時間もわからないオンマと帰ってくるかさえ分からないアボジの為に温めてすぐに食べられるカレーやシチューが殆どだが。
テレビを見ながら食事を済ませて、お風呂に入る。髪をタオルで乾かしながら時計の針を確認すると九時を回っている。麗娜はまだ帰らない、とんだ不良少女になってしまったが宣美がちゃんと注意すれば素直に従うし、最近の中学生ならこのくらいの時間は普通なのかも知れない。
やる事もないのでパジャマに着替えて自部屋の布団に入る、眠気が襲ってくるまで小説を読んでいるのが唯一の安らげる時間だ。すると玄関の扉が開く音がして廊下をパタパタと歩いている、この足音は麗娜だ、そのままリビングに気配が消えていった。
それから一時間くらい経つと再び玄関の扉が開く、今度はオンマで間違いない、どうやら今日もアボジは帰ってこない。いったい何処で寝泊まりしているのだろうか。
まさか浮気――。
いやいや、硬派なアボジに限ってそれはないか、嫌な想像を振り払うように頭を振った、その辺りで睡魔が襲ってきたので電気を決して眠りについた。
激しい口論のような、なにか言い争いが聞こえてきて目を覚したのは深夜の二時を回った頃だ、覚醒しない頭の中で一瞬強盗でも入ってきたのかと錯覚したが、落ち着いて声に耳を傾けるとアボジとオンマの声で安心した。
「いったい何に――金を――るんだ!」
「あなたこそいったい――」
お互いを罵り合う声が聞こえてきたが途切れ途切れで会話の内容までは聞き取れない、聞きたいとも思わなかった。尿意を催したのでトイレに向かう、幸い宣美の部屋からトイレはリビングを経由しなくて良い。
部屋の扉を開けるとハッキリと二人の声は聞こえてきた、なるべく聞かないようにそそくさとトイレに向かい用を足す、手を洗い部屋に戻ろうとドアノブに手を掛けた所でピタッと体が硬直した、二人の会話から意外な名前が出てきたからだ。
「典子ちゃんと何してるわけ、彼女は宣美の友達なのよ」
「なにって、なんだ、偶然会ったからご飯をご馳走しただけだ、彼女は母子家庭で寂しい思いをしている」
その場から動けなかった、え、アボジが典子と一緒に食事? 中学一年から仲良くなり同じ高校に進んだ長崎典子は宣美の唯一の友達であり親友だった。
しかし、そんな話は彼女から聞いたことがない、毎日一緒にお昼を食べて帰りも一緒。話す機会はいくらでもあったはずだ。
「未成年に手を出したら犯罪ですからね」
「おまえ人のことが言えるのか、年下の警察官――」
急いで扉を閉めた、静かな部屋の中で心臓の鼓動が響いている。言い合いを続ける二人の声はなにも形を成さないで真っ暗な部屋の中をぐるぐると行き場なく彷徨っている。
それを形に、正しい文章に直してはいけないと宣美の頭が警鐘を鳴らす、布団に入り頭まで毛布を被ると何も考えないようにして眠りにつこうとしたが結局朝方まで眠れる事はなかった。二人の言い合いもいつの間にか終わり、静寂がマンション全体を包み込んでいた。
風船が萎むように急速に悪くなっていく景気に左右されたのかどうかは分からない、もっと前から聚楽は下降線を辿っていて、この頃には十三店舗あった店は赤羽の一店舗だけになり、家には借金取りが押しかけてくるようになるまで事態は悪化していた。
仲の良かったオモニとアボジは顔を合わせては喧嘩するようになったが最近アボジは殆ど家に帰ってくる事もなくなった、どこで何をしているかは不明だが夫婦喧嘩を見せられるよりは幾らかマシで、宣美はアボジについて何も聞かなかった。
高校三年生になった宣美は大学受験を控えていたが、この頃には進学することは諦めていた、奨学金制度を利用してまで大学で学びたい事もなかったし、できれば働いて家計を助けてあげたかった、教師からは勿体ないと説得されたが意思は変わらなかった。
「ただいま、あれ、オンニ早いね」
中学二年生になった麗娜はすっかり大人びて、幼い頃の美貌そのままに美しい容姿になっていた、彼女の希望で学校は公立の中学校だ、お金がかかる私立を選ばなかったのは我が家の経済状況を彼女なりに把握しているのかも知れない。
「今日は開校記念日で休み、ご飯どうする?」
「あ、ごめん、彼氏と約束があるから」
親指を立ててウインクした、まったく、最近の中学生は進んでいる。いや、自分が遅れているだけか。十八歳になったというのに今だに彼氏の一人も出来たことがない。
言い訳をするならば片思いの男性がいるからだ、もう五年になる。警察官をしている松本亮二は赤羽の交番を移動、いや昇進と言うのだろうか、制服を着る警察官からスーツを着る刑事になったと聞いた。それでも聚楽には顔を出してくれるのでタイミングが合えば話すこともできる。
「ちょっと麗娜、スカート短かすぎない」
「いいの、こうちゃんが短い方が好きなんだもん」
こうちゃん、どうやら件の彼氏のようだが名前はもちろん、同級生なのかどうかも知らなかった、さして興味もない。
「お姉ちゃんもはやく彼氏作りなよ、亮二はもう諦めてさあ」
その言葉は無視してキッチンに向かった、夕飯の準備に取り掛かる、最近は家族の夕飯を作るのは宣美の役目だ。帰ってくる時間もわからないオンマと帰ってくるかさえ分からないアボジの為に温めてすぐに食べられるカレーやシチューが殆どだが。
テレビを見ながら食事を済ませて、お風呂に入る。髪をタオルで乾かしながら時計の針を確認すると九時を回っている。麗娜はまだ帰らない、とんだ不良少女になってしまったが宣美がちゃんと注意すれば素直に従うし、最近の中学生ならこのくらいの時間は普通なのかも知れない。
やる事もないのでパジャマに着替えて自部屋の布団に入る、眠気が襲ってくるまで小説を読んでいるのが唯一の安らげる時間だ。すると玄関の扉が開く音がして廊下をパタパタと歩いている、この足音は麗娜だ、そのままリビングに気配が消えていった。
それから一時間くらい経つと再び玄関の扉が開く、今度はオンマで間違いない、どうやら今日もアボジは帰ってこない。いったい何処で寝泊まりしているのだろうか。
まさか浮気――。
いやいや、硬派なアボジに限ってそれはないか、嫌な想像を振り払うように頭を振った、その辺りで睡魔が襲ってきたので電気を決して眠りについた。
激しい口論のような、なにか言い争いが聞こえてきて目を覚したのは深夜の二時を回った頃だ、覚醒しない頭の中で一瞬強盗でも入ってきたのかと錯覚したが、落ち着いて声に耳を傾けるとアボジとオンマの声で安心した。
「いったい何に――金を――るんだ!」
「あなたこそいったい――」
お互いを罵り合う声が聞こえてきたが途切れ途切れで会話の内容までは聞き取れない、聞きたいとも思わなかった。尿意を催したのでトイレに向かう、幸い宣美の部屋からトイレはリビングを経由しなくて良い。
部屋の扉を開けるとハッキリと二人の声は聞こえてきた、なるべく聞かないようにそそくさとトイレに向かい用を足す、手を洗い部屋に戻ろうとドアノブに手を掛けた所でピタッと体が硬直した、二人の会話から意外な名前が出てきたからだ。
「典子ちゃんと何してるわけ、彼女は宣美の友達なのよ」
「なにって、なんだ、偶然会ったからご飯をご馳走しただけだ、彼女は母子家庭で寂しい思いをしている」
その場から動けなかった、え、アボジが典子と一緒に食事? 中学一年から仲良くなり同じ高校に進んだ長崎典子は宣美の唯一の友達であり親友だった。
しかし、そんな話は彼女から聞いたことがない、毎日一緒にお昼を食べて帰りも一緒。話す機会はいくらでもあったはずだ。
「未成年に手を出したら犯罪ですからね」
「おまえ人のことが言えるのか、年下の警察官――」
急いで扉を閉めた、静かな部屋の中で心臓の鼓動が響いている。言い合いを続ける二人の声はなにも形を成さないで真っ暗な部屋の中をぐるぐると行き場なく彷徨っている。
それを形に、正しい文章に直してはいけないと宣美の頭が警鐘を鳴らす、布団に入り頭まで毛布を被ると何も考えないようにして眠りにつこうとしたが結局朝方まで眠れる事はなかった。二人の言い合いもいつの間にか終わり、静寂がマンション全体を包み込んでいた。