3121号室の狼〜孤高な冷徹御曹司の愛に溺れるまで〜


お昼休憩を終え午後の勤務へと入り、次の仕事内容は清掃が完了した客室の点検や、事前に希望されている備品の準備など。

門井主任の指導の下、私達は迫るチェックインの時間前に全ての仕事を終わらせてから遅番の方へと引き継ぎを済ませ、本日の業務を終了させる。

こうして何とか無事に初日を迎えることが出来、私は緊張感から解放されると、他の従業員の方が来る前に着替えをさっさと済ませて、逃げるようにその場を後にした。

更衣室での話を聞いてしまって以降、私に向けてくる門井主任の笑顔が何だか怖くなり、コミュニケーションをとろうにも上手く話をすることが出来ず、当たり障りのない会話で終わらせてしまい、他の方にも積極的に話し掛けることが出来ず、今日一日まともに話したのは宮田さんくらい。

けど、彼女は口を開けば男性のことばかりで、後に分かった話によると、宮田さんの計画では玉の輿が実現出来たら直ぐにでもホテルマンをやめて専業主婦になるのが夢らしい。

確かに、そんな願望があっても一向に構わないと思うけど、ホテル業を生き甲斐としている私とはやっぱりどうにも馬が合わず、話していると沢山の疑問を感じてしまう為、極力会話をしないように壁を作ってしまっている。


……はあ、人間関係を一から構築するのはこんなにも大変なことだったんですね……。


これまでホテル内部の異動は何回かあったけど、これ程までに苦労した記憶はない。

それもこれも、一度疑心暗鬼になってしまい、怖くなって踏み出す勇気がなくなってしまったせいなのかもしれない。


そう自己分析しながら、私は雲一つない真っ青な空を見上げる。

都内から離れ、自然豊かに囲まれた軽井沢という土地は空気がカラッとして爽やかで、吹く風がとても気持ち良く緑林の香りが漂う。
加えて観光地というだけあり、周囲にはお洒落なお店や美味しいご飯屋さんが沢山立ち並び平日でも活気付いていて、ちょっとした旅行気分を味わえる。

きっとあの更衣室での話を立ち聞きしていなければ、純粋にこの地を満喫出来ていたのだろうけど……。

人間関係に悩まされている今、そんな気力は湧いてこず、明日への憂鬱感の方が勝り気分が落ちこんでいってしまう。

あまり深く考えると、どんどんと溝にはまってしまうので、私は負の感情を何とか振り払おうと顔を上げた時だった。

突然鞄にしまってあった携帯の着信音が鳴り出し、慌てて取り出してみると、そこに表示されてい名前を見て、私は表情が一気に明るくなり始める。

電話の相手は瀬名さんで、まるで今の心境を知っているかのような絶妙なタイミングに、感動しながら通話ボタンを押す。


「あ、天野さん、お疲れ様。今電話に出れてるってことは初日勤務は終わったのかな?」

携帯越しから聞こえる瀬名さんの明るい声。
それを聞いただけで涙腺が緩み出しそうになるけど、そこを何とか堪える。
こういう時、表情が相手に見えないので、その点に関しては電話で良かった心からそう思った。

「はい。何とか終えて今帰っているところです。やっぱり軽井沢って素敵な所ですね。ホテルも都内と違ってリゾート感満載ですし、お店も沢山あるので見てて全く飽きないですよ。瀬名さんは今日はお休みですか?」

そして、 暗い気持ちを何とか表に出さないように気を付けながら、私は自分の中での精一杯の明るい声を出して気丈に振る舞ってみる。

「うん、久々に家でまったりしてるよ。そっか、いいなあー。こっちが落ち着いたら今度有休取って彼女と遊びに行くよ。天野さんには結婚式よりも先に彼女を紹介したいし、顔も見たいし」

「それは凄く嬉しいです。是非来てください。その時までにはここを案内出来るように色々お店を調べておきますね」

昨日の桜井さんに引き続き、瀬名さんもこちらに来て下さることと、婚約者の方に会えるという喜びで気分が徐々に上がってきた私は、取り繕わなくても自然と声に活気が戻ってきた。


「今そっちでは何を担当しているの?」

「ハウスキーピングですよ」

「そうなの?天野さんのスキルじゃ勿体ないね。もっと表立った仕事の方がいい気がするけど」

「そんなことないですよ。何だか初心に帰ったようで新鮮です。それに、あんな事があったからきっと暫くは……」

なんて、あまりにテンポ良く会話が進んでいたので、私は油断してつい余計なことを口走ってしまったと後になって気付く。
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