3121号室の狼〜孤高な冷徹御曹司の愛に溺れるまで〜
「……なあ………」
「…………何?」
すると、突然ポツリと呟いた彼の言葉に視線だけ向けると、何かを躊躇っているのか。なかなかその先に続く言葉を発しない様子に私は少し苛立ち、ついタメ口に戻ってしまった。
「二人で居る時は下の名前で呼んでくれないか?」
何を言われるのかと思いきや、まるで恋人に向けるような彼の要求に、私は危うく飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「は?急になに?滅茶苦茶気持ち悪いんだけど」
そして、上司と部下だと言う事がすっかり頭から抜け落ちてしまうくらいに動揺してしまった私は、思わず本音をそのまま口にしてしまう。
「深い意味はない。ただ、名字で呼ばれることが元々嫌いなだけだよ。変な勘違いされるとこっちも迷惑だ」
そんな私の暴言がよっぽど気に障ったのか。そう誤解されても可笑しくない話なのに、そんな自覚がない彼は酷く表情を歪ませてから悪態をついてきた。
……仕方ない。そう言うのであれば。
彼の事情を知っているだけに、妙に納得してしまった私は、深い溜息をはいてから、顎に手をあてて呼び名について改めて考えた。
「楓さん。……いや、これは無理。気持ち悪い」
「お前、俺に何回それ言ったら気が済むんだ?」
あくまで上司なので、流石に呼び捨ては出来ず、一応礼儀はわきまえようと丁寧な呼び方を試みるも、妙な鳥肌が立ってしまい、二度目の侮辱に彼の表情が一気に歪んだ。
「楓様。……なんか執事か秘書みたいでこれも却下ね」
それならば、敢えて更に丁寧に呼んでみてはどうかとも思ったけど、彼の僕になった気分になり何だか癪に障る。
「……ふーん、秘書か。悪くないな」
ここはもう細かいことは気にせず気軽に呼べば良いかと結論に至った時、何気なく漏らした私の呟きを拾ってきた上に、満更でもない表情で恐ろしい事を言って退けてきて、私は慌てて顔を上げた。
「ちょっと、あなた何処まで私をこき使う気なの?それだけは絶対に願い下げだから!」
同期である上に、部下と上司という関係だけでもうんざりするのに、こんな神経イカれた腹黒男と四六時中行動を共にする秘書なんかになったら、それこそ耐えられないかもしれない。
それだけは何としてでも阻止したい私は必死で訴えるも、奴には全く響いていないようで、不敵な笑みを浮かべながらこちらを見据えてくる。
「言っとくが、俺がそれ相応の地位に就けば、お前には拒否権なんてものは存在しないんだからな」
そして、正しく悪魔のような発言に、私は本気でこの男を引っ叩いてやろうかとつい手が出そうになった。
「……とりあえず、楓君で良いわね」
兎にも角にも、これ以上話が変な方向へと進まないよう本題に戻ると、私は何度目かの深い溜息をはいてから、残っていたコーヒーフラペチーノを一気に飲み干したのだった。