元彼専務の十年愛
外はもう明るい。
俺の体内時計は正しいから、そろそろアラームが鳴るだろう。
少し視線を下げれば、すやすやと寝息を立てる彼女の姿がある。
昨夜はあんなに妖艶に見えたのに、寝顔はあの頃と変わらずあどけない。

あんなに夢中で抱いたのに、『好き』も『愛してる』も言わなかった。
紗知が同情と感傷で俺を受け入れてくれただけだと理解している自分が、最後の最後までその言葉を言わせずにいた。
そもそも言ったところで何の意味もない。
俺は会社のために、この喧騒に満ちた場所で仕事をし続け、いずれ愛のない結婚をする。
紗知は故郷に帰り、ここにいるよりずっと自分らしく生きていけるだろう。
そして、いつか彼女を大切にしてくれる誰かと寄り添って暮らしていく。
それでいいのだ。
本来、色々な偶然が重ならない限り、俺たちの道は二度と交わることがないはずだったのだから。

時間は止まってはくれない。
早く会社に行く支度をしなければならない。
ずいぶん無理をさせてしまったから、きっと紗知はしばらく起きないだろう。
このまま何も言わずに去って行こう。悲しい顔をして別れたくない。
それはやさしい彼女の心をますます痛めてしまうことになる。
名残惜しいけれど、彼女を抱いていた腕をそっとはずして起き上がった。
温もりはあっという間に消え、刹那の幸せの終わりを告げる。
気づかずに眠っている彼女を見つめ、切ない胸の痛みを細い息と共に逃した。
思考を切り替えなければ。
今日もスケジュールは詰まっていて、仕事は山積みなのだから。
天使の輪ができるほどツヤのあるその髪の毛を、そっと撫でた。

…もうこれで、本当に最後だ。

「幸せに」

祈るように囁き、ゆっくりと立ち上がった。

< 128 / 154 >

この作品をシェア

pagetop