元彼専務の十年愛
——父がまだ健在の頃、母に勧められるがまま颯太は我が家で夕食を取ることになり、4人で食卓を囲むことがあった。

「どう?颯太くん。おいしい?」

母が目を輝かせて颯太に問う。

「美味しいです。この煮物、すごく味が染みてますね」
「本当?喜んでもらえてよかったわあ」

『おいしくない』なんて言えるわけがないのに…と浮かれ気分の母に恥ずかしくなりながら、私は颯太の隣で夕食を口にしていた。

「紗知、この煮物のレシピ教えるから、勉強しておかなきゃね」
「え?」

むふふ、と含み笑いをする母の意図はすぐわかった。
顔が熱くなって箸が進まなくなる。
穴があったら今すぐ入りたい…

「母さん、まだ気が早いだろ」

複雑そうな表情の父に母は楽しげに笑い、颯太もそれを見て笑っていた。

夕食後は、ふたりで近所の公園に行った。
地元で有名な紅葉スポットであるその公園には、颯太が私を家まで送ってくれた時、離れるのが寂しくてよく寄っていたのだ。

「ごめんね、お母さんが変なことばかり言って」
「いや、楽しいお母さんだよな」

颯太は朗らかに笑ったけれど、私にしてみればとにかく恥ずかしくて仕方ない。
父は『気が早い』と言ったけれど、そもそも颯太にそんな気があるかもわからないのに。
気まずくて俯くと、颯太が私の手を握った。
顔を上げれば、颯太がやさしい表情でこちらを見つめている。

「いつかさ」

そう切り出した颯太が、歯を見せてはにかむ。

「結婚記念日も、誕生日と交際記念日と同じになったらいいな」

涙が浮かんだ私の頭を撫でながら、颯太は「泣き虫だな」と笑った。

あれはもう遠い遠い昔の話。
二度と戻れない幸せな時間。


ふわりと身体が浮く感覚がした。
そのままゆりかごのようにゆらゆらと揺られ、やわらかい場所にそっと着地する。
生ぬるくこめかみをつたっていった何かが、そっと掬い取られた。

"ごめん、紗知"

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