第三王子の婚約者~内戦状態の母国から生き延びるため隣国へ送られた王女はそこで出会った王子と恋をする~
第3話
「アデルさまは、ずいぶんと大切にされていたようですね。事前の想像以上でした。それが知れただけでも、今回の仕事を引き受けた甲斐がありましたよ」
「私も、それなりに大変だったのよ!」
「それは分かります」
ハンカチで顔を隠したまま、それを下げることが出来ない。
「すっごく、すっごく大変だったんだから!」
嗚咽が止まらない。
こんな風になってしまうのが嫌だったから、だから一緒に乗って欲しいと頼んだはずだったのに。
初めて婚約者が出来たと聞かされた時、何のことだか分からなかった。
結婚の約束と言われ、私にはもうこの家に居場所はないのだと知った。
ノアとは突然現れた兄のように、いつも無邪気に遊んでいた。
でもそれは嘘だからねと言い聞かされ、混乱を抱えたまま育った。
この人たちとは本当の家族になるのではなくて、預けられているのだと教えられた。
仲良くしてもいいけど、決して心を許してはダメだと。
いつ気まぐれで処刑台に移されても、助けてくれる人はここにはいない。
だから常に、自分の身の安全を一番に考えろと。
特にノアとは、付かず離れず適切な距離を保ち、決して飽きられぬよう、好かれ過ぎないよう、細心の注意を払って、自分の気持ちは、絶対に彼には……。
ノアが館を出て行った時に、私が感じたあの絶望を、今は彼が感じているのだろうか。
今度は私が、自分からその手を離したというのに!
「アデル!」
窓の外に、真っ白な馬に乗った人影が見えた。
「アデル、お願いだ。これで本当に最後だから、頼むから聞いてくれ」
ノアだ。
馬の膝丈辺りまで伸びた枯れ野の中を、ゆっくりと進む馬車と平行している。
服は昨日の服のままだ。
「君が! 君が僕のことをどう考えていたかなんて、それが問題じゃないんだ。僕は、本当に君のことを考えていた。だから……」
ノアの馬が遅れる。
彼は手綱を引き馬を進めた。
さらに馬車に近づく。
「好きだ! 君のことが好きだ。アデル、会いに行くよ。必ず! 君が僕のことを、忘れてしまう前に!」
異変に気づいた衛兵たちが、騒ぎ始めている。
まもなくノアは、追い払われてしまうだろう。
「離れていても、心は一つだと言った君の言葉に嘘がないのなら、僕の心も君のものだ。それを君が許してくれるなら、忘れないでくれ」
兵士たちがノアの周囲を取り囲む。
彼の後ろに馬で控えていたエドガーは、腰の剣を抜いた。
「愛してるよ、アデル。僕はいつか君を迎えに行く。今度は必ず、君にふさわしい、君から愛されるような男として!」
鎧兜に身を包んだ兵士が、長い槍を構えた。
馬車とノアとの間に割って入る。
その鋭い穂先が、ノアに向けられた。
馬車とノアとの距離が離れてゆく。
ノアは丸腰だ。
振り上げられた槍の前に、ノアは片腕をかざす。
「やめて! 彼を傷つけないで!」
勢いで、馬車の扉が開いた。
驚いた兵士たちの馬が遅れる。
「アデル!」
ノアは真っ直ぐに、私に手を伸ばした。
「行くな! 戻って来い!」
伸ばした指の先が触れあう。
掴んだ手を、彼は力強く引き寄せた。
「アデルさま!」
私を抱き上げたノアの馬が、馬車から離れる。
フロアーノの怒声が飛んだ。
「追え!」
「追わないで!」
ノアは私を乗せ、全力で馬の手綱を引いた。
混乱する兵士たちの向こうにいる、馬車に向かって叫ぶ。
「やっぱり行けません! 私はここに残ります!」
走り出した。
私を乗せた馬が荒野を駆け抜ける。
一列に並んだ旅団が、あっという間に遠く離れた。
「アデル!」
「来るのが遅い!」
「え?」
「すっと待ってた! ずっと待ってたのに!」
彼の胸に顔を埋める。
泣きすぎてもうしゃべれない。
「あはは。ゴメンね。ゴメン。アデル、いつもタイミング悪くて」
「遅い! 遅いの、遅いのよ。いつもいつも……」
私の気持ちを、全然分かってくれない。
不安で不安で、どうしようもなかった涙があふれ出す。
「ごめん。アデル。ゴメン。不安にさせて悪かった。許して。アデルが戻って来てくれて、凄く嬉しい。本当に」
「離れたくないって、あれほど言ったじゃない!」
「うん」
「私を置いていかないでって!」
「うん」
「絶対に一人にしないでって!」
「うん」
「それなのに、いつもいつもノアは私を置いて……」
「うん。ごめんね」
その手が髪に触れた。ノアが私を見下ろす。
「……もう、離ればなれにしないで」
「うん。約束」
ノアを見上げる。
彼の顔が近づいて、唇が重なった。
何度も繰り返しを交わすそれは、もう二度と離れないという約束。
「またこんなことしたら、本気で怒るからね!」
「もう怒ってる」
「怒ってるよ!」
「あはは。アデルが帰ってきた」
もう一度唇を重ねる。
彼の腕がしっかりと私を抱きしめた。
私が本当の自分でいられるのは、もうノアの腕の中にいる時でしかない。
だから私も、彼を離せない。
「あー……。コホン。あの、ちょっといいですかね……」
我に返る。
顔を上げると、エドガーと使節団の騎士たちが周囲を取り囲んでいた。
「あの……。この後始末はどうするんです?」
「はは。アデル。国には手紙を書いたらいい。春になったら、僕と一緒に挨拶に行くってね。正式な書簡は後で書いて届けるから、エドガーは団長たちを説得しておいてくれ」
「は? ちょっとそれ横暴過ぎません?」
「任せたぞ、エドガー」
ノアは手綱を引くと、馬を走らせた。
私はその体にしがみつく。
「ねぇ、ノアは私のこと好き?」
「好きだよ」
「絶対?」
「絶対」
「本当に?」
「本当だよ、アデル。これからはもう、ずっと側にいるよ」
もう一度キスを交わす。
抱きしめた彼の体から聞こえる強い鼓動が、私の胸にいつまでも響いていた。
【完】
「私も、それなりに大変だったのよ!」
「それは分かります」
ハンカチで顔を隠したまま、それを下げることが出来ない。
「すっごく、すっごく大変だったんだから!」
嗚咽が止まらない。
こんな風になってしまうのが嫌だったから、だから一緒に乗って欲しいと頼んだはずだったのに。
初めて婚約者が出来たと聞かされた時、何のことだか分からなかった。
結婚の約束と言われ、私にはもうこの家に居場所はないのだと知った。
ノアとは突然現れた兄のように、いつも無邪気に遊んでいた。
でもそれは嘘だからねと言い聞かされ、混乱を抱えたまま育った。
この人たちとは本当の家族になるのではなくて、預けられているのだと教えられた。
仲良くしてもいいけど、決して心を許してはダメだと。
いつ気まぐれで処刑台に移されても、助けてくれる人はここにはいない。
だから常に、自分の身の安全を一番に考えろと。
特にノアとは、付かず離れず適切な距離を保ち、決して飽きられぬよう、好かれ過ぎないよう、細心の注意を払って、自分の気持ちは、絶対に彼には……。
ノアが館を出て行った時に、私が感じたあの絶望を、今は彼が感じているのだろうか。
今度は私が、自分からその手を離したというのに!
「アデル!」
窓の外に、真っ白な馬に乗った人影が見えた。
「アデル、お願いだ。これで本当に最後だから、頼むから聞いてくれ」
ノアだ。
馬の膝丈辺りまで伸びた枯れ野の中を、ゆっくりと進む馬車と平行している。
服は昨日の服のままだ。
「君が! 君が僕のことをどう考えていたかなんて、それが問題じゃないんだ。僕は、本当に君のことを考えていた。だから……」
ノアの馬が遅れる。
彼は手綱を引き馬を進めた。
さらに馬車に近づく。
「好きだ! 君のことが好きだ。アデル、会いに行くよ。必ず! 君が僕のことを、忘れてしまう前に!」
異変に気づいた衛兵たちが、騒ぎ始めている。
まもなくノアは、追い払われてしまうだろう。
「離れていても、心は一つだと言った君の言葉に嘘がないのなら、僕の心も君のものだ。それを君が許してくれるなら、忘れないでくれ」
兵士たちがノアの周囲を取り囲む。
彼の後ろに馬で控えていたエドガーは、腰の剣を抜いた。
「愛してるよ、アデル。僕はいつか君を迎えに行く。今度は必ず、君にふさわしい、君から愛されるような男として!」
鎧兜に身を包んだ兵士が、長い槍を構えた。
馬車とノアとの間に割って入る。
その鋭い穂先が、ノアに向けられた。
馬車とノアとの距離が離れてゆく。
ノアは丸腰だ。
振り上げられた槍の前に、ノアは片腕をかざす。
「やめて! 彼を傷つけないで!」
勢いで、馬車の扉が開いた。
驚いた兵士たちの馬が遅れる。
「アデル!」
ノアは真っ直ぐに、私に手を伸ばした。
「行くな! 戻って来い!」
伸ばした指の先が触れあう。
掴んだ手を、彼は力強く引き寄せた。
「アデルさま!」
私を抱き上げたノアの馬が、馬車から離れる。
フロアーノの怒声が飛んだ。
「追え!」
「追わないで!」
ノアは私を乗せ、全力で馬の手綱を引いた。
混乱する兵士たちの向こうにいる、馬車に向かって叫ぶ。
「やっぱり行けません! 私はここに残ります!」
走り出した。
私を乗せた馬が荒野を駆け抜ける。
一列に並んだ旅団が、あっという間に遠く離れた。
「アデル!」
「来るのが遅い!」
「え?」
「すっと待ってた! ずっと待ってたのに!」
彼の胸に顔を埋める。
泣きすぎてもうしゃべれない。
「あはは。ゴメンね。ゴメン。アデル、いつもタイミング悪くて」
「遅い! 遅いの、遅いのよ。いつもいつも……」
私の気持ちを、全然分かってくれない。
不安で不安で、どうしようもなかった涙があふれ出す。
「ごめん。アデル。ゴメン。不安にさせて悪かった。許して。アデルが戻って来てくれて、凄く嬉しい。本当に」
「離れたくないって、あれほど言ったじゃない!」
「うん」
「私を置いていかないでって!」
「うん」
「絶対に一人にしないでって!」
「うん」
「それなのに、いつもいつもノアは私を置いて……」
「うん。ごめんね」
その手が髪に触れた。ノアが私を見下ろす。
「……もう、離ればなれにしないで」
「うん。約束」
ノアを見上げる。
彼の顔が近づいて、唇が重なった。
何度も繰り返しを交わすそれは、もう二度と離れないという約束。
「またこんなことしたら、本気で怒るからね!」
「もう怒ってる」
「怒ってるよ!」
「あはは。アデルが帰ってきた」
もう一度唇を重ねる。
彼の腕がしっかりと私を抱きしめた。
私が本当の自分でいられるのは、もうノアの腕の中にいる時でしかない。
だから私も、彼を離せない。
「あー……。コホン。あの、ちょっといいですかね……」
我に返る。
顔を上げると、エドガーと使節団の騎士たちが周囲を取り囲んでいた。
「あの……。この後始末はどうするんです?」
「はは。アデル。国には手紙を書いたらいい。春になったら、僕と一緒に挨拶に行くってね。正式な書簡は後で書いて届けるから、エドガーは団長たちを説得しておいてくれ」
「は? ちょっとそれ横暴過ぎません?」
「任せたぞ、エドガー」
ノアは手綱を引くと、馬を走らせた。
私はその体にしがみつく。
「ねぇ、ノアは私のこと好き?」
「好きだよ」
「絶対?」
「絶対」
「本当に?」
「本当だよ、アデル。これからはもう、ずっと側にいるよ」
もう一度キスを交わす。
抱きしめた彼の体から聞こえる強い鼓動が、私の胸にいつまでも響いていた。
【完】