月がてらす道

 と言われた野間口氏は、会釈しながらそそくさと自分の席へ戻る。その姿に、先ほどよりは強く、申し訳ない思いが湧いてくる。他の社員の刺すような視線にも今さらながら気づいた。
 こっちへ、と促されて、同じ8階の小会議室へと向かう。おそらく総務やシステム課が会議の際に使う部屋だろう。
 「さてと」
 システム課課長──ネームカードに「前坂」と書いてある相手は先に手近な椅子に腰掛け、立ったままの尚隆に「座りなさい」と自分の隣を示した。
 言われた通り、小会議室仕様のパイプ椅子に腰を下ろす。
 「君は、先週出張から戻ってきたんだったかな」
 「そうです」
 「で、須田くんに何の用だったんだい」
 「個人的な話です。帰国してから何度か電話したんですが、つながらなかったので。それで伺いました」
 ──あの日、彼女の家で一晩過ごした、翌朝。
 月曜日だったから、始発の時間を見計らい、一度自宅に戻ることにした。そろそろ服を着ようかと考えた頃に、みづほも目を覚ました。
 二人そろってシャワーを浴び、身支度を整えた。彼女が用意してくれた朝食を取り、コーヒーを飲み、30分ほどを過ごした。その間、必要最低限の事柄以外はほとんど喋らずにいた。自分は考えていることがあったし、みづほはずっとうつむきがちで、頬を染めたままでいた。シャワーの際、抱き合いながらキスを繰り返したことが、後になって恥ずかしくなったのかもしれない。
 『じゃあ、帰るな』
 『……気をつけて』
 『ちゃんとしてから、話すから。待ってて』
 不安げな表情のみづほにそう言い、約束の証として、もう一度キスした。彼女は答えなかったが、涙目でまっすぐにこちらを見つめる様子から、理解してくれたのだと判断し、疑わなかった。
 ──それが本当は、自分の勘違いだったというのか?
 「広野くん」
 前坂課長が、柔和に見える外見とは裏腹な、重々しい声で呼ばわった。
 「君の話は社内に広まっているよ、半井専務に見初められ、娘さんとの縁談が進行中だとね。……須田くんも、それは承知のはずだ。だから辞めることになったんだろう」
 「──え?」
 「これ以上、彼女の件で騒ぐのは、君のためにならないということだよ。せっかくの輝かしい将来をふいにするのは、望ましいことではないだろう。須田くんもそう思っているはずだ、噂が本当なら」
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