月がてらす道
少なからず緊張している自分とは違って、みづほに動揺や困惑の空気は感じられない。愛想の良い微笑みも、部屋に他の社員はいないにもかかわらずプライベートな質問には声を潜める、その手の気遣いも昔と変わりなかった。正確に言うなら、あの出来事が起こる前のみづほと。
「そうなんだ。それでここに入ったって、すごい偶然。よろしくね」
と、みづほが差し出した手を、若干のためらいを覚えながらも「あ、……うん」と反射的に握った。
ほっそりした、柔らかい手。じわじわと呼び覚まされる記憶が鮮やかになる前に、こちらから手を離した。
「PC使っててトラブルがあったら、いつでも言って。じゃあ、急ぎのメールチェックとかあるから、今日はこれで」
穏やかな微笑みのままそう言い、みづほはくるりと背中を向ける。用件は終わったし、そう言われるともう何も言えない気持ちで、去るしかなかった。
「──失礼しました」
呼び出されて怒られた後に職員室を去る生徒のような気分で、システム課の部屋を出る。
来た時と同じく非常階段で、上のフロアに戻る道すがら、尚隆は首をひねり続けていた。
──彼女は、もう何も感じていないのか?
あれ以後の様子を思い返すと、とてもそうは信じられないのだが。
みづほが正門前にやってきた、後。
それからの出来事はこの8年間、あまり思い返さないようにしてきた。そういうふうに努力しないと何かの拍子にすぐ思い出してしまって、考えてしまうからだった。だが努力しても過去を変えることはできないし、自分の言動を忘れることもできなかった。ふとした時に記憶が頭をよぎるたび、心に刺さったままのトゲが食い込む痛みを、罪悪感を新たに感じてきたのだった。
──みづほが応じたとはいえ、そもそも誘いを口にしたのは自分。だから彼女が来た時にすぐにでも、「悪い冗談だった。ごめん」と言って帰すべきだったのだ。
けれどそうはしなかった。無言で、硬い表情で、だがおとなしく付いて来るままのみづほを伴ってホテルに行き──彼女を抱いた。
あのひとときは、今でも鮮明に思い出せる。
みづほが未経験だったのは、予想した通りだからたいして驚かなかった。意外だったのは彼女の体の美しさだ。地味な服装の下に隠されていたのは、凹凸のはっきりしたバランスのいいスタイルと、綺麗でなめらかな肌。長い髪もほどくと手触りが良く、いい匂いがした。思いもしなかったギャップと抱き心地の良さに、気づけば行為に没頭していた。
さらに、初めてにもかかわらずみづほは、恥じらいながらも的確に反応して、自分から求めるように抱きついてくることもあった。高校2年で当時の彼女と最初にした時を含めても、みづほとのあの時ほど夢中にはならなかったと思う。
体の相性が良いというのはこういうことかと、文字通り肌で実感した。
みづほも、同じだと思った。だからその気があるのなら付き合ってもいい、なんてことまで考えていた。
しかし、みづほはその後、一度たりとも自分と、二人きりでは話そうとはしなかった──卒業する日まで。
以来、今日まで、互いの顔を見る機会さえまったくなかったのだ。