月がてらす道
その表情に、みづほの心にもちくりと、良心の呵責による痛みが生じた。自分の巡り合わせが悪いのは別に、彼のせいではないのに。だがあえて、痛みを無視して続ける。
「そういうことだから。もう話、ないわよね」
「え、ちょっと」
「ここのお勘定、会社のツケにできるから。そう言っとく」
「待てって!」
立ち上がり去りかけたみづほを、大声と椅子の倒れる音が制した。みづほを止めようと声を上げた尚隆が、反射的に立ち上がった勢いで椅子を後ろに倒したのだ。
当然ながら、店内の客の視線が、一斉に集中する。ああ、これは明日、会社総出で来ないとマスターに申し訳ないな。そんなことを考えながら。
「わざわざこんなとこまで来てくれて、ありがとう。でも、私の気持ちは変わらないから──さよなら」
最後の一言は、こちらの予測以上に打撃を与えたらしい。完全に言葉を失った、愕然とした表情で、尚隆はみづほを見た。なんだよそれ、と訴えかけているような目だった。
「元気でね」
まとわりつく思いを振り払い、みづほは付け加えた。これで本当に最後だと告げるように。
今度こそ、みづほはその場を離れた。心配顔のマスターに謝罪と、勘定の件を伝えて、店を出る。一度も、振り返らなかった。
事務所に戻ると、叔母と営業部員二人はおらず、販売部長の従兄のみが席で仕事をしていた。みづほを見て「あれ」という表情になる。
「お帰り。早かったね」
「ごめんなさい手間かけて。春代さんと長田さんたちは?」
「母さんは休憩、後の二人は外回り。用事もう済んだの」
「うん、終わった」
「……みいちゃん」
ためらうような間をおいて、販売部長が呼ばわる。非常に気になることがある、そういった雰囲気で。
聴かれるだろうとは思っていたから、みづほは普通に応じた。
「なに?」
「さっきの人、もしかして、前に言っていた人?」
「──うん、そう」
「何の話だったの」
「前の会社から、復職しないかって声かけられたんだけど、断ってきたわ。戻っても居心地悪いだけだし、こっちの仕事もあるし」
「それは、うちは有難いけど……そうじゃなくて、他にも話はあっただろ」
数秒の沈黙の後、みづほは首を振った。部長が驚きでいっぱいの表情になる。
「まさか、言わなかったの」
「うん」
「…………、なんで」
部長の言葉が途切れる。歯を食いしばっているみづほを見てだろう。いったい今、自分はどんな表情をしているのだろう。
「────それでいいのか、ほんとに」
抑えた声。気遣いと心配と、その他諸々の感情が含まれているのがわかるから、申し訳なく思う。心が揺れなかった、今でも揺れていないわけではない。けれど。
「ん、いいの。ごめんね心配かけて」
みづほのきっぱりとした言葉に、部長は沈黙する。自分が頑固であるのは親戚中の一致した認識で、当然、従兄である部長も子供の頃からそれを知っている。今はこれ以上言ってもだめだ、と思ったのだろう。いや、と短く応じて、仕事に戻った。
みづほも自分の席に戻り、新しく来たメールがないかの確認をする。ほどなく休憩から戻ってきた叔母が、部長と潜めた声で話しているのを横目に、仕事を続けた。間違いなく、さっきのやりとりについて話しているのだろう。後で叔母にも何か言われるかもしれないが、みづほとしては同じ答えを繰り返すのみである。
彼には、言わない。さんざん悩んだ後で、そう決めたのだから。