月がてらす道
ややあって、大きく息をつく音が聞こえる。間が一拍。
「また来るから」
一言、言い置いて立ち上がった尚隆が、応接間の障子を開けて出ていく様子を、うつむいたままで聞いた。一歩一歩、遠ざかっていく足音が聞こえなくなった頃、涙が落ちた。
……何分か経った頃、母が入ってきた。手に、みづほが産院の定期検診帰りに買ってきたケーキの皿を持って。箱ごと落としてしまったが、見る限り、意外と無事だったらしい。
ことり、と一緒に持って来た紅茶とともに、テーブルに置かれる。
「食べなさい」
正直、今はそんな気分ではなかったが、一口分切り分けて口に入れた。気分が高ぶった時には甘いものとお茶、というのが母の昔からの信条だった。
商店街に子供の頃からある、老舗の洋菓子屋のケーキ。味は変わらず美味しいはずだが、今はあまり感じられない。
「あんた、あの人にちゃんと話してなかったのね」
「……ごめんなさい」
「それで、なんて言ったの」
「──もう来ないで、って」
「あの人は?」
「また来るから、って」
そりゃそうでしょうね、と母がつぶやくように言った。
「あの人、指輪持って来てたわよ」
「…………え?」
「ダイヤみたいに見えたから、婚約指輪じゃないかしら。渡してくれって言われたけど、それは自分で渡した方がいい、って返したわ」
「…………」
指輪?
さっき何か、持って来ていた紙袋をいじっていたのは、それを出そうと思って、だったのだろうか。
──私は、もしかして、勘違いをしていたの?
頭が混乱を極めて、ぐるぐるしてきた。大変な間違いをしでかしたのかもしれなかった、そんな気がして。
その日は朝から、落ち着かなかった。正確に言うならば、落ち着けという方が無理な状況に陥っていた。
「おい、ここの計算、掛け算になってないか?」
「え、あっ……申し訳ありません」
「大丈夫か? 最近、残業多いだろう。疲れてるんじゃないのか」
「いえ、大丈夫です。すぐに直します」
見積書の金額間違いを指摘され、課長に返却された書類を破棄し、急いで金額計算の関数を入力し直す。ふう、と尚隆はため息をついた。こんな単純ミスを、今日は3度も繰り返している。さすがにこれ以上何かしでかすのはまずい。