わたしのかわいいだんなさま
「それでは、まず王太子殿下の唇へキスをして差し上げてくださいませ」
「………………は?」

 離宮の門にて、美しく編み上げられた籐製の乳母車を押し付けられ、メリズローサは何を言われているのかわからずに、気の抜けた返事を返してしまった。

「この白の離宮は、女神ウィワンナーガの加護の元にありまして、中へ入れるのは主人の他は従者一人と、主人からのキスの祝福を与えられたものだけとなります」

(……なるほど、道理で比較的狭めとはいえこの離宮にカリンしか侍女がいなかったわけね)

 見捨てられたわけではなかったらしい。
 確かに人手のない割には離宮にはチリ一つ落ちてはいないし、空気も清浄、室温も快適である。その上なんと浴室は24時間源泉かけ流しの温泉だ。それもまあ、女神の加護だといえばそうなのだろう。
 料理や洗濯ものなどは離宮の外から運ばれるから問題ない。カリンなどは、余計なことを言ってくる侍女頭も執事もいないしで、お気楽なその生活をすでに満喫している。
 
「ですから、王太子殿下の入退室の際には必ず唇へのキスをお願いします」
「わかりました。それではお任せくださいませ」

 男性とはいえ、相手は赤ちゃんだ。キスの一つや二つどうってことない。メリズローサは乳母車の中を覗き込んだ。

 アルヴィンの真っ白で見るからにもちもちの肌に、黄金に輝くふわふわの髪。すでに開いている大きな瞳は空が抜けるような青さで、そこに金色のまつげが飾られた宝石のようだ。これはもう一つの芸術品だと言っていい。

(ううううう。か、可愛いっ!)

 今まで見たこともないような可愛らしい赤ちゃんが、乳母車の中、美しいレースに彩られた布団にくるまれていた。

(なにこれ、天使? 天使に違いないでしょう! わたしの未来の旦那様は天使だったの!?)

 あまりの愛らしさに、メリズローサの頭の中で天上の鐘がリーンゴーンリーンゴーン鳴りだした。
 天にも昇る気分とはこういうことをいうのだろうか。

「……あの、メリズローサさ……ま?」
「あ……」

 ――コホン。
 王太子殿下付き侍女の呼ぶ声で我に返ったメリズローサは、あらためてアルヴィンに向かい、彼の小さな唇にキスを落とした。
 唇への刺激が気になったのだろうか、ちゅばっ、ちゅばっと唇をむにゅむにゅ動かす仕草も可愛らしい。
 メリズローサはふにゃんとまなじりを下げた。もうメロメロになりそうだ。

 それでは本日は2時間後にと、下がる侍女たちを見送り、メリズローサは離宮内へと向かった。

「ふふふ。殿下は本当に可愛いですわ」
「やだわ、お嬢様。もう殿下に首ったけですか? お熱いですわねえ」
「なんとでも言いなさい。可愛いは正義よ!」

 ねー、とまだ全くわからないだろう王太子へ声をかける。すると、何が刺激になったのか、アルヴィンは急にふぎゃっ、ほぎゃあ、と泣き出した。

「あらっ、急にどうされましたか? 殿下?」
「いやいや、直接聞いても無理ですよお、お嬢様。多分おしっこじゃないですか? おっぱいは離宮へ来る前にあげたばっかっていってたんでしょ?」
「え、待って、待って。キスとは違うでしょう?」

(赤ちゃんとはいえ、男性だ。しかも婚約者の……大事なところを見てしまうのは、淑女としてはどうなのだろう。うん、勘弁してほしい)

「何言ってんですか。どうせ、そのうち見るんですよ、ちん、ごぶっ……もがぁ!」

 メリズローサは無理矢理カリンの口をふさいだ。

「いえ、いえ、いえ。そこ言わないで、言っちゃダメえ! 心の準備をちょうだいっ」
「げほっ、まあ、あと十うん年ありますけどね、心の準備期間」
「そういうわけだから、カリンお願いっ!」
「仕方がないですねえ。貸し一個ですからね」

 そう言い放ち、王太子殿下をあやしながら別室へと連れて行くカリンは、貸しはいくつまで溜まるかなーなどと不敬なことを考えている。
 本当に、主従関係が破綻した二人であった。

< 5 / 30 >

この作品をシェア

pagetop