狂愛メランコリー
「え……?」
冗談を言っているとは思えなかった。
それくらいに真面目な表情をしていたし、何よりそんな無神経な冗談、彼が言うはずもない。
「私だよ、花宮菜乃。忘れちゃったの……?」
そんなわけがない、と思いながらも訴えかけるようにその黒い双眸を覗き込む。
向坂くんは少し困惑したように私を見返し、やがてゆっくりと首を左右に振った。
知らない、と言わんばかりに。
声をかけてくれたのは、私があまりにもただならぬ雰囲気を醸し出していたからだったのかもしれない。
「…………」
開いた口が塞がらなかった。
瞠目した瞳は瞬きすら忘れていた。
────ますます、わけが分からなくなった。
私は確かに向坂くんと友だちになったはずだ。
私は向坂くんを知っている……。
まさか、それも夢だったと言うの?
「何かよく分かんねぇけど、俺に用でもあんの?」
「……いい、大丈夫」
「なわけねぇだろ。行くぞ、場所変えようぜ」
鬱々と青白い顔で答えたものの、向坂くんは半ば強引に私の手を取った。
流されるような形で連れて行かれた先は、やはりあの階段だった。
(……ほら、知ってた)
向坂くんが好きなこの場所のこと。
私は確かにここで彼と出会ったはずなのだ。
「で、何か話でもあんの?」
話したいことはたくさんある、と思っていたのに、何から話せばいいのか分からない。
知っているはずなのに知らない人みたいな今の向坂くんは、どのくらい真剣に向き合ってくれるんだろう。
「……私、夢を見てたの」
そう切り出すと、彼は「夢?」と反復した。
「その中では、私と向坂くんは友だちなの。私、理人に甘えて駄目駄目だったけど、向坂くんのお陰で“変わりたい”って思えた。頑張ってた。それで────」
勇気と自信と優しさをくれる彼のことを、私は好きになった。
……このことは、さすがに言えないけれど。
「それで?」
「……理人に打ち明けたの、ぜんぶ。自分の気持ちとか覚悟とか。そしたら私……彼に殺された」
はっきりと覚えている。
狂気染みた理人の微笑と言葉。
『また、すぐに会えるから』
はっきりと残っている。
締め上げられた首や腕の痛みと息苦しさ。
私を殺すことに何の抵抗も躊躇もないようだった。
「予知夢、なのかな……?」
私が彼に殺される結末を避けるために、神様が見せてくれた“未来”なのかもしれない。
「…………」
しばらく沈黙が続いた。
いきなり見ず知らずの人にこんな突拍子もない話をされたら、当然困惑するだろう。
変な奴だと思われたかもしれない。
聞かれたからって、何で正直に話しちゃったんだろう。
だんだんと後悔の感情がせめぎ合い始めると、長い長い静寂を彼は破った。
「────夢じゃねぇかも」