Melts in your mouth
お尻一つ分平野から距離を置けば、お尻一つ分相手がその距離を詰めてくる。わざわざ近寄んな、もっと離れろ。ありったけの不満を顔で表してみても、花が綻ぶ様な微笑を返されるだけ。私に残された逃げ場はごく僅かである。


全てを受け入れるにはまだまだ時間が必要そうだったが、血の気の失せた顔を手で覆いながら言葉にも声にもならない感情を吐息に含ませた私は、目線だけを平野に投げた。



「ノラって何なの。」

「何って源氏名に決まってるじゃないですかー。本名でこういう仕事するのはちょっとなーって思って、「平野《ひらの》」って苗字の最初の「ひ」を抜かして反対から読ませてみました。」

「平野 ノラって…あんたバブリーダンスでもするつもりか?しもしも?とか言うつもりか?肩パッド入れた赤いジャケット羽織るつもりか?」

「え、何の事ですか?」

「……。」



通じなくて草。なけなしの余裕を掻き集めて放った私のボケを真顔で返すなよ、やはりこいつとは心底馬が合わないな。

やたらと純朴な瞳を向けて首をコテンと折る平野の姿は、私以外のsucré編集部の人間が目撃したら「キャーキャー」と黄色い悲鳴を上げそうな程に美しい。


天井に吊り下がっているラブホには似合わないシャンデリアのせいだろうか、それともこの私では余りにも不釣り合いなメルヘンな部屋の装飾のせいだろうか、いつにも増して平野が眩しい。そしていつも以上に平野の言動が癪に障る。



「うちの会社は副業禁止っていう規則もないし、あんたが好きでやってる副業なんだろうから私には関係ないけれど、何でまた女性用風俗のボーイという特殊な仕事をしてんの?純粋に疑問なんだけど。平野はモテるんだから異性に困らないでしょ。」

「えー、それ訊いちゃいます?」

「私の質問には答えてくれるんでしょ。」

「そうですね。」

「じゃあ教えて…きゃっ…。」



せめて最後まで人の発言は聞けよ!そんな文句を紡げなかったのは、私を押し倒した男の顔が酷く艶やかだったからだ。不覚にもその平野に見惚れてしまったからだ。


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