Melts in your mouth
人のいない窓際のテーブル席。それ即ち私のお昼休みの指定席。フランスパンを齧って咀嚼する私の向かいで頬杖を突いて目を細めているのは、憎き後輩平野 ノラ…あ、間違えた平野 翔。
悔しいけどめちゃくちゃ美味い。何だこのバインミー。生ハムだけじゃなくてアボカドもトマトも玉葱もレタスもクリームチーズもバジルソースまでも全部が私の好物だ。
「……。」
「……。」
「……。」
「……。」
「……お、美味しい…。」
「ホントですか!?!?」
「近い、離れろ。」
「良かった〜嬉しいです。それじゃあ俺もいただきまーす。」
ミシュランガイドでもなければ食べログでもないというのに。出版社に勤務するしがない編集者である私からの「美味しい」だってのに。平野はさも何かしらの最優秀賞でも受賞したかの様な喜びを隠す事なく表に出す。
ニッコニコで手を合わせて、やっと自分の分のバインミーに齧り付いた平野を眺めながら思った。
調子が狂うな…と。
バジルソースの爽やかな香りの狭間に感じる平野の甘いそれは、人生最大の汚点になったあの日、あのラブホのあのベッドで、胸焼けする位に嗅いだ香りだ。
弱みを握られた。それも生理的に嫌いな人間に握られた。これまで平野に対して親切にした記憶がこれっぽちもないだけに、私は平野からどんな要求を出されるかヒヤヒヤした。
まずパシリはほぼ確だと思い、こいつのパシリになるくらいなら異動願い出してやると思考を展開させ、そうなったらお前を呪い殺すまで意地でも会社を辞めてやらねぇからなと、捻くれ過ぎて複雑な知恵の輪みたいになった結論を固めた。
「先輩、この写真バラ撒かれたくなかったら、俺と毎日お昼を一緒に食べて下さいね?」
それなのに、いざ平野の口から提示された条件は、実に拍子抜けする内容だった。
え?
ん?
は?
三つの疑問符が浮いた後、「そ、それだけ?」私はそう漏らして無意味なまでに瞬きを繰り返した。
恐らくあの時の私はコメディ漫画の登場人物さながらに目ん玉が飛び出ていた事だろう。
「これでもう昼休みは俺から逃げられないんで、覚悟して下さいね永琉先輩。」
「え!?あんたマジでそれだけの為に私の弱み握ったわけ!?」
俄には信じられない現実に戦慄する私の手首を拘束する様に掴んだ男《ひらの》は、十人中十人が満面の笑みと答える程の笑みを湛えて、コクンと大きく頷いた。