Melts in your mouth


大手出版社とは名ばかりの、社員すらも認知していない割合の方が圧倒的に多いであろう辺鄙(へんぴ)な編集部に配属されてしまった私は、つくづく貧乏くじを引きやすい体質なのだろう。

だって、やっとできた後輩もあの世の中を舐め腐っている平野だし。もう完全に貧乏神に愛されているとしか思えない。



「じゃあ今週金曜日の仕事終わりとか、どう?」

「締め切りも会議もないし、多分定時で帰れる。」

「マジ?なら今週金曜日の仕事終わりに呑みに行こうぜ。」

「良いよ。何処にする?山田と私と言えばもつ鍋じゃね?」

「流石菅田。俺ももつ鍋提案しようとしてた。去年上司に連れてって貰った店のもつ鍋美味かったからそこ予約しとくわ。」

「お、さんきゅー。」



他愛の無い会話のラリーを繰り返している内に、あっという間に目前に会社のビルが現れた。このビルが視界に入るだけで胃が痛くなる。望みは限りなく薄かったがやはり今日も爆発しないでしっかり聳え立っている。


駅から七分ぽっちの距離だというのに、山田から借りた傘はすっかりぐしょぐしょになっている。ハイヒールが撥水性の素材だったのが唯一の救いだ。

屋根のあるエントランス前で傘を折ってバサバサと付着している水滴をしっかり飛ばして折り畳む。「山田、傘ありがとうマジ助かった」釦を留めてすっかりコンパクトサイズになったそれを隣にいる男に差し出せば、相手が首を横に振った。



「持ってろよ。今日は一日中雨予報だし、夕方から夜にかけて豪雨らしいから、その傘、帰りも使えば良いじゃん。」

「うわ、ちゃんとした大人だ。眩しい。」

「ハハッ、何だそれ。」

「いやこっちの話だから気にしないで。でも山田に借りばっかり作って何か悪いわ。山田への借りを金に換算すると高校生の時からだから普通に億超えると思う。」

「気にすんな。俺が好きで菅田にお節介してるだけだし。それに……。」

「それに?」



自分の傘を几帳面に折り畳み終えた山田と目が合って、相手の続きの言葉が気になった私は首を捻る。だけど台詞の続きよりも先に届いたのは、山田が伸ばした手だった。

アイロンでストレートにしたってのに、湿気で秒殺された私の髪をクシャクシャと撫でた山田が爽やかに、はにかんだ。



「菅田にその傘を貸すのは、また菅田に会う為の口実だから。」

「……。」

「そしたら、菅田が俺に傘を返す時に必然的に会えるじゃん?」



“だから菅田は、その傘持ってて”



山田の柔らかくてさっぱりとした良い香りが鼻孔を掠めた。口許に弧を描いた山田は「そんじゃお互い、社畜頑張ろうな」置き土産の様にその台詞を残して、IDパスをエレベーターのボタン下に翳したのだった。


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