Melts in your mouth
私の代が新入社員としてこの出版社に入社した際、sucré編集部の配属に決定したのは同期の中で私一人だけで、最初の一年間はかなりロンリーに浸る時間もあった。
そのせいもあってか、漸くこのオフィスに自分以外の新顔が来てくれる事に多少の期待を寄せていた。
そう、今では大変に認めたくない過去なのだが、私は自分の初めての後輩になるらしい「平野 翔」というまだ見ぬ人物に実は結構心を躍らせていたのである。
当時、月刊女性マンガ誌『sucré』の業績は恐ろしいまでの低空飛行で、出版社の中でもかなりの弱小チームだった。実写ドラマ化や映画化になる作品はまるでなく、SNSで話題になる程の物語にも恵まれず、これは私の勝手な推測だが間違いなく社内の廃刊候補ぶっちぎりの第一位に君臨していた。
そんな誰もが察するレベルの自転車操業状態のsucré編集部に私の後輩として配属が決定したのが、平野 翔というたった一人の人物だった。
とどのつまり、私は平野以外に希望や期待を抱く相手がいなかったのだという言い訳だけは先にさせて頂こう。
業績報告の日と、締め切り日と、チーム会議の日…それ即ち毎日目が死んでいる先輩や上司が、屍と化している双眸に輝きを灯してざわめきだったのは、私の記憶が正しければこれが初めてだった気がする。
「ちょっと皆、一旦手止めてくれる?今日から新しくsucréの編集部に仲間入りする新入社員の子です。平野君、自己紹介してくれるかな?」
オフィスにいた誰もが、喋っている編集長に視線を向けている振りをして、その隣に佇んでいる長身の男へ熱視線を注いでいた。
お祓いでもした方が良いんじゃないの?ここは沼の底か?ってくらいどんよりしていたsucré編集部内の雰囲気が、瞬く間に華やいだ。