出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 奨生は千佐都が把握したトラブルのあった取引先のリストを手に、「また来る」と言い残し自分の会社に帰って行った。
 見えない犯人にばかり気を取られているわけにいかず、皆は通常の業務に取り掛かる。幸い、偽物の請求書は一件だったようで、他にクレームが入ることはなかった。

「実乃莉ちゃん、大丈夫?」

 帰る用意をした深雪に心配そうに尋ねられる。けれど、朝よりはずいぶん気持ちが楽になっていた。

「はい。澤野社長とも連絡先は交換しましたし、何かあればすぐ連絡していいとおっしゃっていただけましたから」
「困ったことがあればすぐ連絡していいからね。愛想はないけど、悪い人じゃないから」
「もちろんです。頼りにしています」

 実乃莉がそう返すと深雪は安心して帰って行った。
 千佐都からも「澤野さん、友だちの旦那さんなんだけど、いい人だから」と言われ、実乃莉の不安は少し和らいでいた。

 けれど、一人になると不安は押し寄せてくる。

(私に恨みを持っている人……)

 奨生の言葉がふと頭に浮かぶ。
 今まで恨まれるようなことをしたことはないと思いたい。けれど、思いもよらないことが原因で恨まれてしまうこともある。特に、政治家という立場の祖父や父は。そう考えると、一番弱いだろう娘に矛先が向いてもおかしくない。
 いくら考えたところでそんな人物に思い当たることはなく、実乃莉は溜め息を吐いた。

(龍さん……もう着いたのかな?)

 車を走らせていると言っていたし、駐車場に龍の車もなかった。ということは、自分の車で京都に向かったということだろう。
 いったいどれくらいで着くのか検討もつかず、実乃莉はパソコンで調べてみた。

「六時間……。もう着いてる?」

 パソコンの画面に向かい一人呟くと、スマートフォンを確認する。そこに龍からは何の連絡も入っていなかった。
 電話をしてみようかと思ったが、まだ運転しているかも知れないと思うと躊躇う。実乃莉はメッセージアプリを開くと、じっと考え込んだ。
 何度も書いては消しを繰り返し、結局『無理しないでくださいね。帰りを待っています』と短い文面のメッセージを送った。
 そのメッセージに既読が付くことはないまま退社時間になり、実乃莉は会社を出た。
 エレベーターで一階に降りると、念のため集合ポストの中を確認しに行く。何も入っておらずホッとしていると、ホールの向こう側から糸井と同じチームの佐古と藤田の話し声が聞こえてきた。
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