出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「藤田さ〜ん。どうなっちゃうんでしょうね。うちの会社」
「どうって、危ないってやつ?」
「そうですよ〜。業績、厳しいんですかね?」

 姿は見えないが、会話は反響して実乃莉の耳にはっきり届いた。

(二人もあの噂を知ってたなんて……)

 愕然としたまま実乃莉は聞き耳を立てる。実乃莉に聞かれていることなど知らず二人は会話を続けていた。

「SSの社長来てたし、買収されるとか?」
「まぁ、あそこの社長もやり手だし。俺は給料さえ出ればなんでもいいけど」
「藤田さん割り切ってるな。そりゃそうだけど……。俺はとりあえず、龍さん信じてますけどね」
「俺だって別に、信じてないわけじゃないけど?」

 そんな会話は足音とともにだんだん遠ざかり、消えていった。

(龍さんがいてくれたら……)

 悔しくなって唇を噛んでしまう。
 出所もわからない根も葉もない噂は、龍が不在のこともあり不安を増幅させている。もし今、龍が会社にいたなら、きっと明るく笑い飛ばしてみんなの不安を拭い、士気を高めてくれただろう。けれど、その龍はいない。

「会いたい……です。龍さん……」

 張り詰めていた糸がプツリと切れた気がした。そんな感覚に陥ると、実乃莉の瞳から涙が溢れ落ちていく。
 会えないどころか声すら聞けないもどかしさ。もう一時間以上前に送ったメッセージすら読んだ形跡はない。その事実に胸が張り裂けそうなほど苦しくなった。
 実乃莉はズルズルと狭いスペースに座り込む。ポストが三つ並んでいるだけの小さなこの場所に、この時間来る人間などいないだろう。実乃莉は膝を抱えると嗚咽を漏らした。

 どれくらいそうしていただろうか。バッグの中でスマートフォンが震えていることに気づき、泣きすぎてぼぉっとしている頭を上げた。
 実乃莉はそれを取り出すと、慌てて電話に出た。

『実乃莉? 今いい?』
「龍……さん……」

 また涙が滲みそうになり必死に堪える。泣いていたことを悟られれば心配をかけてしまいそうだ。

「はい。もう家ですから」

 平静を装い努めて明るく振る舞うと、龍の安堵したような声とその向こうから騒めきが聞こえてきた。

『そうか。急な出張で迷惑かけるな』
「大丈夫です。龍さんこそ、忙しいんじゃ……」
『まぁ色々とな。今から接待だって連れ出されたところ。スマホ見る暇もなくて悪い』
「そんなこと! 気にしないでください」

 実乃莉は精一杯強がってみせた。本当は寂しくてしかたないのに。
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