出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「――私がお話ししたかったのはこれで全部です」

 まだ堅い表情のまま一息に吐き出すと、実乃莉はようやくほんの少しだけ肩の力を緩めた。
 書斎の応接ソファに姿勢良く座る実乃莉の前には、難しい表情をして黙り込んでいる父、孝匡(たかまさ)の姿がある。実乃莉が話している間、ただの一言も喋らず、最初から最後までその表情を変えることはなかった。

 孝匡には今までの出来事を全て話した。龍と出会った経緯からの全て。叱られてもいい。婚約破棄することになってもいい。龍を守ることができるならそれで。

「…………で、お前はどうしたいんだ?」

 ようやく口を開いたかと思うと、孝匡は静かに尋ねた。
 こう質問されることは予想できた。孝匡は実乃莉と話をすると、こう投げかけてくることが多いからだ。

「この一件が……婚約解消で収まるなら、そうしたいと思っています」

 真っ直ぐにそう返すと、孝匡は眉間に刻まれた皺を深くする。

「それだけで収まらなければどうするんだ?」
「それは……」

 そこまでは、正直なところ考えていなかった。事の発端が"別れろ"なのだから、別れればどうにかなるのではないかと思う気持ちがあった。
 実乃莉が言葉を濁すと、孝匡は顔を顰めたまま息を吐きソファにもたれかかった。

(面倒事を持ち込んだと……思っているよね……)
 
 良好な関係とは言えない孝匡に意を決して相談したのは、自分の手に負えないと思ったからだ。いくら周りが助けてくれようとしていても限界がある。
 それに、もしもこの件が龍にではなく自分に対する嫌がらせだとしたら……父は何か知っているかもしれない。

「龍君は、私にこの話をすることを知っているのか?」
「いえ。お伝えしていません。私の独断です。……お父さん。その……」

 何か考え込んだふうの孝匡に、実乃莉はおずおずと切り出す。

「私たちが婚約していることは、どのくらい広まっているんですか?」

 正式に結納まで済ませたといえ、周りにお披露目をしたわけではない。会社で知っているのも深雪だけで、交際していることすら誰も知らない。
 なのに、脅迫文には"婚約を解消しろ"とあった。十日も経たないうちに、どうしてそれを知ることができたのか、それがずっと引っかかっていた。
 孝匡は顔を上げると実乃莉に向かい答える。

「私の周りで知っているのは秘書くらいだ。だが父さん、お前の祖父は数人かに伝えているらしい」

 そう言って、孝匡はその政治家たちの名前を挙げはじめた。
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