出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 実乃莉は瞳子を一瞥すると龍に視線を動かす。龍はまた鋭い視線を返した。

「……本気なのか?」

 じっと自分を見据える龍にゆっくりと頷く。

「はい……。最初から間違いだったんです。私の勝手な都合に龍さんを巻き込んだ。いまさら無かったことにはできません。それでも、"ここから"また……やり直すことはできるはずです」

 泣きそうな気持ちを必死で堪えて言葉を紡ぐ実乃莉に、龍は真っ直ぐな視線を向けていた。その横で瞳子は、悦に入った表情を見せ始めていた。
 実乃莉はスッと背を伸ばすと話しを続けた。

「龍さんが本当は……瞳子さんを愛されていて、結婚を考えていらっしゃるのは知っています。だから……もう、いいんです」

 それを聞いた龍は黙ったまま眉を顰めた。その龍が口を開く前に、瞳子が口火を切った。

「誰から聞いたのか知らないけど、そういう噂が広まるのは早いわね。私なら龍にもっと相応しい場所を用意できるわ。あんな小さな会社じゃなくて、大企業の社長の座だってね。まぁ、あなたが潔く身を引いてくれてよかったわ」
「確かに……。私には何の力もありません。祖父や父には力があるように見えるでしょう。けれどそれに縋るつもりはありません。虎の威を借る狐にはなりたくありませんから」

 高らかに言う瞳子に、実乃莉はいたって冷静に返す。
 瞳子は疎ましそうに顔を歪めると、「ほんと、生意気な子」と小さく吐き捨てた。

 そんなやりとりに龍は口を出さなかった。それは敢えてそうしてくれているのだと信じたかった。

「それでは私の話も終わりましたし、これで失礼します。心ばかりの食事をご用意いたしましたので、お二人でお召し上がりください」

 そう言うと実乃莉は立ち上がる。龍はそれに合わせて顔を上げた。

「一つだけ……聞いていいか?」
「はい。なんでしょうか?」

 龍は苦渋の表情を浮かべ実乃莉に尋ねる。それに実乃莉は、感情のこもらない淡々とした口調で答えた。

「さっきの話し、誰から聞いた?」
「りょ、龍っ! いいじゃない、噂の出所なんて!」

 瞳子は突然慌てふためく。まるで自分に都合が悪いと言うように。

「私の非礼な振る舞いをお許しいただいたようで、ある方がわざわざ教えてくださいました。瞳子さんのおっしゃる通りあくまでも噂ですので、お名前までは……」
「……そうか。ならいい」

 龍はそれだけ言うと視線を外した。

「では……これで」

 一礼すると、実乃莉は振り返ることなく堂々とした足取りでその場をあとにした。
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