出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
 この会社ではほとんど淹れることのないお茶を給湯室で用意すると社長室に戻る。瞳子はソファに座りスマートフォンを眺めていた。

「お待たせいたしました」

 実乃莉を見ることもなく、瞳子は「私のことは気にしなくていいわよ」と言った。
 やり辛くはあるが、背に腹は変えられない。実乃莉は「失礼します」とだけ言うと席に戻った。
 本来なら、例え龍相手の来客でもこの部屋で応接することはない。ここは事務関係の執務室も兼ねていて仕事に支障が出るからだ。だから今までは全て、他の来客と同じように小さなミーティングルームを使用していた。
 けれど瞳子は、当たり前のようにこの部屋に入りくつろいでいる。それだけこの場所に来ている証拠だと思った。

 時間はまもなく五時。実乃莉の終業時間だ。けれど中途半端なままではいられない。気持ちを切り替え、実乃莉は残った仕事に取り掛かった。

(なんとか……終わった)

 その後は電話も掛かることなく、無事に請求書の束は出来上がった。
 メールで送るものもあるが、それは来週で構わないと言われている。ペーパーレスと言われる時代でもまだ紙で欲しがる会社はそれなりにあるらしい。たった三十通ほどだが、一人で仕上げるのは初めてでかなり気を遣う。
 とにかく、やり遂げられたことに実乃莉はホッと息を吐いていた。

「ねぇ。いつになったら帰ってくるのかしら?」

 瞳子が来てから三十分ほど経っている。瞳子は苛々した様子で尋ねた。
 今日、龍と約束している時間は六時だ。駅前の店で、ここから歩いて十五分あれば着く。いまだに龍から何も連絡が無いということは、間に合うからだと勝手に思っていた。

「おそらくもう少しで……」
「おそらく? 使えない子ね。龍に連絡してちょうだい」

 実乃莉の言葉に瞳子は自分の言い分を被せる。

「ですが、龍さんはまだ仕事中かと……」

 実乃莉がおずおずと返すと、途端に瞳子の眉は吊り上がった。
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