出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「あなた、社長をそんな親しげに呼んでるの? まさか龍を狙ってるなんてことないでしょうね?」

 他の社員も誰一人"社長"と呼ぶ者はいないし、何より『社長なんて呼ばれるのは柄じゃない。名前で呼べ』と言ったのは、龍本人だ。
 けれど、それは社内だけに留めておけばよかったと実乃莉は後悔していた。
 鷹柳のお嬢様として育った実乃莉は、今までこんなあからさまな態度を取られたことはなかった。ましてや、敵意を向けられるなど。

「そんなことは……ありません……」

 震えながら搾り出した声は弱々しく部屋に響く。それを聞いた瞳子は勝ち誇ったように笑みを浮かべた。

「龍はこんな小さな会社の社長で収まっているような人じゃないの。まぁ、貴女のような小娘にわかるはずもないと思うけど」

 実乃莉は何も言い返せず唇を噛み締める。何を言ったところで、経験値は相手のほうが遥かに上で、きっと一笑に付されるだけだ。
 無意識に握り締めた拳が震えている。それは悔しさと言うより、自分の不甲斐なさからだった。

 そのとき、部屋の向こうを誰かが歩いて……いや、かなり慌てて向かってくる気配がした。壁が簡易なぶん、部屋の中まで振動が伝わってくるのだ。
 ガチャリ、と勢いよく扉が開くと、そこには息を切らせている龍が立っていた。

「お帰り……」

 なさい、と実乃莉が言う前に、瞳子が立ち上がり龍に駆け寄った。

「龍! 遅いじゃない!」

 瞳子は先ほどまでとは違う、甘ったるい声を出すと龍に飛びついた。実乃莉とはかなりある身長差も、モデル並みに高い身長とハイヒールの瞳子とならちょうどいい。瞳子はあっさりと龍の首にしがみついていた。

「瞳子。なんでいる?」
「やだわ。久しぶりに顔を見せたから怒ってるの? ごめんなさい? 龍を放っておいて。一ヶ月ほど海外に行ってたの」
「そんなことは聞いていない」

 険しい表情でしなだれかかる瞳子を引き剥がすと、龍は唸るような低い声を出した。
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