出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「龍ったら。照れてるの?」

 瞳子は冷たい龍の態度を気に留める様子もなく、フフッと笑いながら彼の頰に手を滑らせている。かと思うと、瞳子は振り返り実乃莉に言った。

「ねえ、あなた。もう帰っていいわよ。少しは気を利かせてくれないかしら?」

 あざ笑う瞳子に萎縮したまま、弾かれたように実乃莉は机上の封筒を掴んだ。

「りょ……社長。請求書はできました。帰りに投函しておきます。ではお先に失礼します」

 『龍さん』と言いかけ、それを言い直すと、二人を見ることなく横をすり抜ける。

「実乃莉!」

 龍が叫ぶように名を呼ぶが、それに反応することなく更衣室に駆け込んだ。

「なんで……教えてくれなかったんですか……」

 ロッカーの扉に手を掛けたまま、実乃莉は力なく吐き出す。
 瞳子が婚約者だということを糸井はなんの疑いも持っていなかった。龍は瞳子に会えて嬉しいという表情ではなかったが、自分がいたからあえてそうしたのかも知れない。どう見ても親密で、大人の関係を思わせる距離感。自分と龍の距離とはかけ離れている。
 考えれば考えるほど虚しくなり、振り払うように頭を振ると帰りの支度をした。

 更衣室を出て、まだ灯りの付いている社長室の前を足早に通り過ぎると、ちょうど大部屋から糸井が出てきた。

「あ、実乃莉ちゃん。お疲れ様!」
「お疲れ様です。先ほどはありがとうございました」

 先に出口に向かう糸井に歩調を合わせ実乃莉は礼を言う。

「どういたしまして」

 明るく笑いながら糸井は扉を開けるとそれを押さえ、実乃莉に出るよう促す。パタンと後ろで扉が閉まるとそれを待っていたように糸井は話し出した。

「災難だったよねぇ。瞳子さん、いっつもああやって突然現れるからさ。大丈夫だった?」

 同情するように尋ねられ、実乃莉は「はい……」とだけ答える。本当は少なからずダメージは受けたけれど、そんな弱音は吐きたくなかった。

「とりあえず龍さん遅れそうだし、先に店行っとこ? 今日、来てくれるんだよね? 俺たちのチームの打ち上げ」

 屈託のない笑顔で糸井はそう言った。
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