出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「……誰?」

 スマートフォンを持ったまま、男は低めの艶やかな声で尋ねる。聞こえていなかったのかと、もう一度実乃莉は話す。

「鷹柳……鷹柳実乃莉です。斎藤先生の秘書のかた、ですよね? 今日、お見合いすることになっている……」

 不審者でも見るような目つきの男にそう告げると、「見合い?」と口に出しながら男の眉がピクリと動いた。

(聞いてない……の……?)

 実乃莉は当然、相手は乗り気でやって来たのだと思っていた。けれど、今目の前にいる男の様子を見るとそうでもなさそうだ。それなら話は早いかもと実乃莉が口を開いた途端、背後から凄い剣幕で怒鳴り散らす声が聞こえて来た。

「なんてことをしてくれたんだ‼︎」

 実乃莉は思わず振り返る。周りの客も何事かと一斉にそちらに向いていた。注目を浴びているのは実乃莉の隣の席。背中を向けて座っている男だった。隣と言ってもニメートルほどは離れているが、話す内容は丸聞こえだった。

「お客様、大変もうしわけありません」

 深々とお辞儀をしながら謝っているのはさっき実乃莉を案内していた男だ。その足元にはグラスが転がり、絨毯には染みが広がっていた。

「もうしわけないで済むと思っているのか!」

 そんなに衣服に水がかかったのだろうか。後ろの客は激昂し声を荒げている。さっきまでの、優雅だったレストランの空気は、その声のせいで気まずいものに変わっていく。
 あまりジロジロ見るのも気が引け、実乃莉がまた前を向くと、向かいの男は不愉快そうに眉を顰めていた。

(とにかく、話しの続きをしなきゃ)

 そう思い直し実乃莉はまた話を切り出そうとしたときだった。
 耳を疑うような台詞が後ろから聞こえてきたのは。
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