出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「どう?」
「よかった……。お似合いです」

 龍が今着ているグレーのスーツにもしっくりくる色合いで、柄はうるさくなくちょうど良い。初めて選んだ品物が似合うかどうか気がかりだったが、それを見て一安心した。

「大事にするよ」

 龍はそう言って微笑みながら実乃莉の髪を優しく撫でる。たったそれだけで天にも昇るような気持ちになっていた。

「さっきじっと見てたけど。ネクタイ締めるの、興味ある?」

 そんなに不躾に見てしまったいたのだろうかと羞恥心が湧き上がるが、実乃莉は正直に頷く。
 家ではいつも母が父のネクタイを選び締めていた。それが二人の特別な時間に思え、どこか羨ましくもあったからなのかも知れない。

「やってみる?」

 楽しそうに言うと龍はシュルリとネクタイを解く。その手つきがなんだか艶かしく思えて実乃莉は視線を外した。

「じゃ、よく見て」

 また実乃莉が龍の手元に視線を戻すと、手本を示すようにゆっくりとネクタイは結ばれていく。実乃莉はその手元を片時も逃さまいと見つめるが、それは簡単そうで複雑だ。

「龍さん、早いです!」

 全く覚えられなかった実乃莉は、抗議するように頰を膨らませる。

「悪い悪い。じゃ、今度は一緒にやろう。立てる?」

 龍は笑いながら手早くネクタイを解くと立ち上がった。向かい合うように実乃莉が立ち上がると、龍は自分の胸の前で合わせたネクタイを実乃莉に持たせた。

「――こうやって、こうすれば……」
「……できた!」

 龍の手解きで綺麗に結ぶ終えると、嬉々とした笑顔で見上げる。龍はそんな実乃莉を優しい表情で見つめていた。
 けれどそれは優しいだけではない。絡まる視線はパチッと静電気を発したように刺激的だ。その瞳に捕らえられたら最後、もう逃れられないと悟るくらいに。

「実乃莉……」

 龍は実乃莉の背中に腕を添わすと自分のほうに引き寄せる。ゆっくりとその顔が近づくのを見て、実乃莉は自然に瞼を閉じた。
 ふわり、と龍から立ち昇る香りが強くなると、唇に柔らかな感触が伝わった。
 最初こそ恐る恐るに思えたその温もりは、だんだんと熱を帯び実乃莉の唇を喰む。苦しくて龍の腕にしがみつくと、龍は腕にいっそう力を込めた。

「はぁっ……。ん、ん……」

 唇が離れた瞬間、空気を求めるように息をしてもまた唇は塞がれる。何度も求められ、実乃莉は痺れるような甘い感覚に身を任せていた。
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