出会ったのは間違いでした 〜御曹司と始める偽りのエンゲージメント〜
「お祖父……様、ですか?」
「そう。自分の子に飽き足らず、その子どもまでも意のままに操ろうとした傲慢な男」

 龍はそこで深く息を吐き出した。

 皆上家の先代、つまり龍の祖父は数年前に亡くなったと聞いている。政治家ではないからか、実乃莉はその人がどんな人となりだったか耳にしたことはなかった。
 けれど龍の話しぶりから察するに、先代は龍を無理矢理政治家にしようとしていたのだろう。それに反発し龍は実家と疎遠になった。そう考えるのが自然だった。

「もうとっくにこの世にはいないのにな。いい年して、いまだに昔のことを思い出すと嫌な気分になる」

 吐き捨てるように龍は言いながら眉を顰める。その顔は、由香の言った『大喧嘩』の一言で済まないような根深い何かがある気がした。
 これ以上深入りすれば、龍が心を閉ざしてしまいそうで怖くなる。実乃莉はただ黙って唇を噛んだ。

「……すまない」

 重苦しい空気に先に口を開いたのは龍だった。実乃莉は顔を上げ龍を見上げると首を振った。

「謝らないでください。龍さんは何も悪くありません」

 実乃莉への謝罪を口にする龍のほうが、傷ついているように見える。実乃莉は実乃莉で、自分が傷つけてしまったような気持ちになっていた。

「そう言ってもらえると気持ちが軽くなるよ」

 信号待ちで止まったタイミングで、龍は小さく笑みを浮かべ実乃莉に顔を向けた。

「そんな! 私は何も……」

 自分が役に立っているとは思えない。龍にしてもらうばかりで、何も返せていないのが本当のところだ。
 けれど龍は首を振る。

「実乃莉がそばにいてくれるだけでいいんだ。顔見るだけで癒されるし、嫌なことは忘れられる。全部俺の都合だ。だから……無理に連れ出して悪かったと思ってる」

 冗談めかすわけでもなく淡々として落ち着いた、少し切なさを含んだ声で龍は言う。

「私の存在が癒しになるなら……、いくらでも使ってください。無理に、だなんてカケラも思ってません」

 龍が自分を必要としてくれるなら、なんだってしたい。そんな、家族にすら湧いたことの感情を認識する。

(そっか。これが……愛、なんだ……)

 泣き出す前のように顔をくしゃくしゃにした龍が実乃莉の頭を撫でる。実乃莉はその手を取ると、温もりを感じるようにそっと頰に当てて目を閉じた。
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