感情ラベリング
けたたましく揺れる車両も次の停車駅を知らせるアナウンスもうるさくて仕方がない。
耳に差し込んだイヤホンから流れているはずの音楽は掻き消されていた。
朝から単語帳を開く気力なんてない。
ただでさえ肌が触れ合う不快な距離感に人が居るのに更に憂鬱な気持ちになんてなりたくなかった。
幸い今日は英語も古典も単語テストがない日なので焦る必要も無い。
淀んだ空気が流れる朝の満員電車は気分がいいものではなかった。
皆が一様にスマホを眺め、目的地までやり過ごす。
最初は初めて見るもの全てに期待を向けていたが、数ヶ月も経つと飽きてくるものだ。
プログラムされたロボットのように学校まで迷わず足を進める。
別に学校が好きな訳でもないし嫌いなわけてもない。
行かないという選択肢が与えられていないだけで、そこに私の意思はなかった。

「おはよう」

ほとんど人が居なかった教室は開始10分前ともなると段々と人が集まってくる。
ぼんやりとスマホの画面を眺めていた私は顔をあげず応える。
見なくとも声の主が誰なのか分かっていた。

「おはよう紗奈」

自分でも自覚を持つぐらい冷めてる私には中学からの同級生である、大槻 紗奈しか友達と呼べる人は居ない。紗奈は女子バスケ部で、帰宅部の私とは違って青春を謳歌している。
毎朝こんな私に挨拶をしてくれるほど、人当たりも良い。
どうして私と仲良くしてくれるのか不思議ですらある。
ちらっと目をやると、紗奈の少し赤くなった顔から朝練だったのだと察した。

「朝練お疲れ様」
「ありがとー。一限って数学だよね?」
「うん Bの方」
「だよね、やばい寝そう」
「頑張って」

当たり障りない会話をしていると開始5分前の予鈴が鳴る。
すると流石にみんな自分の席に座り始めた。

「じゃあね」
「うん」

紗奈も自分の席へ戻った。
そのたった数歩の距離を歩く間でさえ多くのクラスメートから挨拶をされる紗奈の人望の厚さを横目に何気なく教科書を開く。
なんのために学んでいるのか分からない記号の羅列は私の気持ちを更に沈めた。

その日の数Bの授業は入試問題に挑戦してみようというテーマで、隣の席の人と考える時間が与えられた。

「僕はこの公式に当てはめてこうやって持ち込めるかなって思ったんだけど。白浪さんはどう思う?」

私は元から数学が得意ではない、というかむしろ苦手だったので突然告げられた授業内容は苦痛なものでしかなかった。
勉強なんて自分一人で完結すればいいものを、何故わざわざ他人とやるのか理解ができない。
どちらかが出来ていなかったら、優秀な方に迷惑をかけるのは避けられないじゃないか。

「白浪さん?」

自分の世界に居た私は声をかけられていることに気が付かなかった。
はっと顔をあげると澄んだ瞳が私を真っ直ぐ捉えている。

「ごめん、数学得意じゃなくて、ちょっとぼーっとしちゃってた」

角が立たないように手を合わせて謝った。
ペアワークの時間なのに何をしているんだと呆れられてしまうか、と思っていると

「今回の範囲難しいよね。単に公式当てはめるだけじゃ解けないし、正直このレベルの入試問題をこの時期からやらされるのはキツい、」

思ってもいなかった共感の言葉が出てきた。
隣の席の彼は 田代 裕太。
端正な顔立ちの彼は「天は二物を与えず」の言葉に反している存在。
勉強面では模試の校内順位で1位の常連、スポーツ万能で色々な部活から声が掛かっていた。
なぜか本人は1つの部活に所属することはしないけれど、間違いなく運動神経は抜群だった。
それでもって誰に対しても分け隔てなく優しく接する。彼を嫌いと言う人はまず居ないだろう。
居たとしたら嫉妬心から来るものだとしか考えられない。
とは言え今まで高二に上がってからの数ヶ月、一言も話した事がない私に向かってもなおこの柔らかい対応なのかと、普段人と全然話さない私にはなんだかむず痒かった。

「あ、あぁ、うん、そうだよね」

なんとも言えない声が出る。
思えば、紗奈以外のクラスメートと学校で話したのはこの日が最初だった。


放課後清掃の時間、私は1人で中庭の掃除をしていた。
同じグループになった他の女子3人は清掃がある事を忘れているのか一向に来ない。
中庭は何気に広いので1人ともなると少し大変だ。
とりあえず箒で落ちた緑色の葉を集める。
段々と汗ばむ季節になり、肌にはりつくシャツが少し気持ち悪かった。

「白浪さん」

名前を呼ばれて振り返ると田代くんが立っていた。
彼の手には箒が握られている。

「僕も手伝うよ」
「田代君、違うグループでしょ?今日は担当じゃないじゃん。悪いよ」

彼は一昨日あたり清掃担当だったはず。
もちろん私は手伝ってなんか居ない。
この優しさも彼の性格から来るものなのだろうか。

「1人じゃ大変でしょ」

そう言って掃き始めてしまった。
断るに断れなくなってしまったので黙って私も掃除を続けることにした。

「ありがとう」
「気にしないで」

2人でやるとやはり早く片付け終わった。
中庭なんて今の時期蒸し暑くて長居はできない。
居るとしたらそんな暑さをものともしないバカップルぐらいだ。
木陰に置かれた茶色のベンチはカップルのイチャイチャスポット。
休み時間は男女2人がそこで楽しそうに話している。


ゴミ袋をまとめて事務室に持っていき、荷物を取りに教室へ向かう。
普段人と話さない私は2人で廊下歩いている間の沈黙が気まずかった。

「なんで他の女の子3人、呼び止めなかったの?」

沈黙を破ったのは思いがけない言葉だった。
しかし私はすぐに状況が掴めた。
彼は今日の昼休みのことを言っている。
教室の端で同じ班の女子3人が、放課後カラオケに行こうと楽しそうに話していたのだ。

「今日放課後カラオケ行こうよ!」
「あ、この間話してた曲、カラオケに追加されたよね!」
「3人で歌いたくない?」
「めっちゃあり!5限のモチベできたわぁ」


私は自分のロッカーから教科書を取ろうと廊下に居たが、ドアが全開だったので声が届いていた。
彼女たちの言葉から清掃を意図的にさぼったのかまでは判断できなかったが、たしかに私は、あそこで呼び止めるべきだったのだろう。

少しの間を置いて口を開く。

「なんのこと?」

廊下には私の他に誰も居なかった。
わたしが話を聞いていたことを彼が知っているはずがない。
変に話して、私が悪者になるのは避けたかった。

「……廊下で聞いてたでしょ」
「……」

私は黙るしかなかった。
なぜ私が廊下で話を聞いていたことに気が付いているんだろう。
たしかに、誰もいなかった。
誤魔化しがバレたのもなんだか恥ずかしくて、何も言えなかった。

「毎日あれくらいの時間にロッカーから教科書取ってくるから、聞いてたと思ったんだけどな、分からないなら良かった、ごめんね変なこと話して」

ちょうど教室に着いて、話は終わった。
多少の違和感を覚えながらも足早に教室を出た。
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