甘い罠、秘密にキス


「もしもし?」


これからそっちに向かうっていうのに、一体どうしたんだろう。もしかして“遅い”って怒られるのかな。

そんな不安を抱きながら受話口に耳を傾ければ『伊織?』と聞こえてきた声は想像より遥かに弱々しかった。


『悪い、今日やっぱ無しでいい?』

「……え?」


予想外の言葉に、思わずキョトンとしてしまう。


『今度必ず埋め合わせするから』

「それは別にいいけど…急にどうしたの。何かあった?」


もしかすると仕事のトラブルかもしれないと思い問いかけてみると、次に聞こえてきたのは小さな咳払いだった。


『なんか若干風邪引いたっぽくて』

「え、大丈夫?熱は?」

『微熱。体もピンピンしてるし大したことねえけど、お前にうつしたら悪いから』


あの桜佑が風邪…昔から身体が丈夫なイメージがあったから、なんだか意外だ。
今まで弱っているところなんて見たことがないからあまり想像出来ないけど、ピンピンしてるって言う割にその声は明らかに元気がない。

…もしかして、昨日の朝方、私が布団を独り占めしたせいで体を冷やしたとか?それとも私の寝相が悪過ぎて、桜佑はベッドで眠れなかったとか?

本当の理由は分からないけれど、なぜかものすごく罪悪感を抱いてしまい、思わず「差し入れ持って行こうか?」と尋ねる。だけど返ってきたのは『いや、いい』の一言だった。


「別に遠慮しなくてもいいのに。いま丁度近くのスーパーに来てるし」

『いいから帰れ。連絡遅くなって悪かったな』

「せっかくだから飲み物だけでも…」

『だからいいって言って…』

「だったらドアノブに掛けて帰るから」


お互い一歩も引かない状況に、桜佑が小さく溜息を吐いたのが分かった。

体調不良の人を相手に、少しムキになってしまったと若干反省しつつも、このまま何もせずに帰るのも嫌で、続けて口を開く。


「桜佑が嫌って言っても、私は勝手に…」

『なんで察してくんねえかな』

「……え?」


遮るように小さく紡がれた言葉に、思わず首を傾げる。


『お前が部屋の前まで来たら、帰したくなくなるだろ』

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