甘い罠、秘密にキス
だから今日はとりあえず帰れ。そう続けた桜佑は、再び小さな咳を零した。
「そんな理由じゃ納得出来ないよ」
『…は?』
なぜだろう。どれだけ突き放されても、私の足は未だ桜佑の部屋に向かおうとしている。
だって“帰れ”って言う桜佑の声が何となく寂しそうで、私には“帰らないで”って言っているように聞こえたから。
それにこういう時に頼ってくれないのなら、婚約者なんて言わないで欲しい。桜佑が本気で私と結婚するつもりなら、一昨日私が助けられたみたいに、私だって桜佑を支えてもいいはずだ。
「私はこのまま桜佑を放っておけない。一人暮らしで体調崩すと色々大変でしょ?」
『いやだから、そこまで酷くないんだって。自分で動けるし心配すんな』
「そんなのこれから酷くなるかもしれないじゃない。声も明らかに元気がないし、無理してるでしょ」
『してねえよ。寝たらすぐ治るレベル』
「ねぇ、私達婚約してるんだよね?」
『……』
「だったら私の意見も取り入れてよ。私、亭主関白な男は無理だからね」
ピシャリと言い切ると、桜佑は遂に観念したのか何も言い返してこなくなった。
静かになった桜佑に「何か欲しいものはある?」と再び尋ねると、受話口から聞こえてきたのは小さな溜息。
『…伊織』
「うん?」
『伊織が欲しい』
こんな時になにふざけてんのって、思わずつっこみそうになった。でも言えなかったのは、その声が桜佑のものとは思えないほど弱っていたから。
『まじで何も持って来なくていいから』
「……」
『お前に会いたい』
昨日も一昨日も一緒にいたはずなのに、まるで何年も会えていないかのように力なく放たれた声。
私はそれに対し、考えるより先に「分かった、すぐ行くから待ってて」と返してた。
桜佑の言葉は、時々私の心を突き動かす。
胸の奥がきゅっとなって、一刻も早く桜佑に会いたくなった。