甘い罠、秘密にキス
来て早々、面倒な人物と接触してしまった。
心の中で「やらかしたー!」と叫びながら、表情に出ないよう営業スマイルを貼り付け、ハンカチを差し出す。もともと私の方が背が高いのに、ヒールのせいでかなり見下ろす形になるため、なるべく腰を折って、目線を合わせながら。
今日はどんな嫌味を言われるだろう。
ボールペン事件で桜佑が庇ってくれた日から、前ほど攻撃されることはなくなったけれど、この人が私を女として見ていないことは今でもひしひしと伝わってくる。
それにいま私の隣にいるのは、いつも以上に綺麗な川瀬さん。お気に入りの川瀬さんのドレス姿に、もはや私の存在が目に入らなかったりして。
「課長、ハンカチを…」
「君はどこの部署の子だったかな」
「……え?」
嫌味を言われるつもりで身構えていただけに、彼から出てきた言葉に思わず目を見張った。
ハンカチを受け取ることなく、私と目を合わせたまま口を開いた課長は、にんまりと目尻を下げながら「名前は?」と続ける。
「え…と、」
「うちの会社に、川瀬ちゃん以外でこんなに可愛い子がいたとは驚いた」
「……」
このおじさん、もしかして既にお酒を1杯引っ掛けてきたのではなかろうか。私が“佐倉くん”だということに、全く気付いていないらしい。
鼻の下を伸ばして、いつも川瀬さんに向ける表情で私を見てくる彼は、不快を通り越してむしろ滑稽だ。
唖然とする私に、課長は「あれ、これは私のハンカチだね」と私の手からハンカチを受け取る。そのやり取りをずっと隣で見ていた川瀬さんが、ふと私の腕を取り「課長、お疲れ様です」と口を開いた。
「おお、川瀬ちゃんじゃないか!美しすぎて一瞬誰なのか分からなかったよ。いやあ、美人に囲まれて嬉しいなあ」
「課長はお気づきでないようですね」
「……ん?」
「この方、佐倉さんですよ」
「……さく、ら……え?!」
分かりやすく肩を揺らした課長の手から、ハンカチが再び床に落ちた。