甘い罠、秘密にキス

「佐倉さん、今日は一段とお綺麗ですよね」

「……」

「あ、課長。またハンカチ落ちてますよ」


勝ち誇った顔で課長にハンカチを渡す川瀬さん。それをおずおずと受け取った課長は、まだ私が“佐倉くん”だということを受け入れられないのか、口を開けたまま固まっている。


「佐倉くん…だったか。いや、うん。そんな気はしてたんだが…」


私の頭のてっぺんから足の爪先まで、課長は何度も視線を動かしながら嘘を吐く。そこにいつもの勢いはない。

その様子を見て思わず苦笑浮かべる私に、川瀬さんが横からツンツンと脇腹をつついてくる。


「佐倉さん、きっと今なら何も言い返してこないですよ」

「…え?」

「何か言ってやりたいことはないですか?普段の怒りをここでぶつけてやりましょう」


川瀬さんのブラックな部分を、初めて見たかもしれない。
私に耳打ちしてくる彼女の目は、意外にも本気だった。


「別に私は…」


今更課長に言いたいこともなければ、理解してもらいたいとも思わない。むしろ角が立たないようにずっと我慢してきたから、これからだって…。

いや、そうやって私が何もしないから、この間も桜佑が庇ってくれたんじゃないか。今だって、川瀬さんにだいぶ助けられている。

これからも守られるだけの女でいるつもり?…ううん、私は変わるって決めたんだ。背中を押してくれる人達のためにも。


「…課長、」


もうこの人に、これ以上男扱いさせてやらないんだから。

心の中でそう訴えながら、意を決して口を開いた──その時。
ふと会場の入口付近が視界に入り、そこにいた人物を捉えた瞬間、息を呑んだ。

背が高いだけでなく、顔が整っているからよく目立つ。

伊丹マネージャーと並んで入ってきたその男は間違いなく桜佑で、普段とはまた違うスーツ姿に、思わず目を奪われた。

< 195 / 309 >

この作品をシェア

pagetop