甘い罠、秘密にキス
「もしかして、俺に言いづらいこと?」
「え?」
私を一瞥した彼の表情は、少し苦しげだった。その瞳と視線が絡んだ瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。
「まさか、やっぱあの男とヨリを戻すとか?お前が俺を避けてたのも、実はアイツが関係してんの?」
「…はい?」
「そういえばお前、好きな人が出来たら婚約解消するって言ってたもんな」
「……」
言葉が出ない。これは現実なのだろうか。
“どちらかに先に好きな人が出来たら終わり”
桜佑と婚約することになった日、確かに私はそう言った。
でもそれは、あの時はまだ桜佑のことを天敵だと思っていたからで。あれから色々あって、桜佑のいいところを沢山知って、お互いにいい方向に進んでると思っていたのに。
私でも忘れていたようなこと、なんで桜佑は覚えてんの。無駄に記憶力良すぎるんだよ。ていうか、さっき私からキスしたじゃん。藤さんに気持ちがあるなら、あんな事するわけないでしょ。
なんか、悲しいを通り越して腹が立ってくる。なかなか上手くいかないことが悔しい。
目頭が熱い。視界がどんどん滲んでいく。
「なんでそんなこと言うの…?」
「……」
「勝手に決めつけないでよ…」
いや待てよ。そういえば数時間前、私も桜佑に同じようなことをしたな。勝手に勘違いして、暴走して。
桜佑がいまこんな台詞を言うのも、元はと言えば全部私のせいじゃないか。私が早く気持ちを伝えないから、桜佑が不安になるんだ。
「…藤さんにそんな感情はひとつもないよ。彼はただの先輩で、ヨリを戻すなんてこと絶対にないから」
「……」
言い切る私を見て、桜佑はくしゃりと黒髪を掻く。そして何度目か分からない溜息を吐くと、突然席を立った。
仕事をしているのだと思っていたけれど、既にパソコンはシャットダウンされていて、画面は真っ暗。
バッグと缶コーヒーを手に取った彼の無機質な目が、私を捉える。
「悪い、やっぱ今日は帰るわ」
「え、」
待って桜佑──そう言いかけたところで、また邪魔が入る。桜佑と私、ふたりきりだったオフィスに、他の課の先輩がぞろぞろと数人戻ってきたのだ。