甘い罠、秘密にキス

他の社員の前で呼び止めることも出来ず、ただ立ち尽くす。そうしている間に、桜佑はオフィスから出ていってしまった。


もどかしい。どうしてこうも上手くいかないのだろう。

ここにきてすれ違いばかりで、もしこのまま気持ちを伝えられたとしても、上手くいかないんじゃないかと不安になる。

今度は桜佑の方から婚約解消したいって言い出したりして。見た目は男っぽいくせに、中身はうじうじしてるつまらない女だと思われたかも。

恋というものは、どうも人を臆病にするらしい。相手の些細な変化で、簡単に心が乱れてしまう。

でも、このままでいいのだろうか。私がここで諦めたら、きっとこの溝は深まる一方だ。

私としか結婚は考えられないって言ってくれた桜佑を、私は手放したくない。私の下手くそな料理でも喜んでくれる桜佑と、一緒に食卓を囲むのが小さな夢でもあるから。

何を迷ってるの。全力でぶつかるって、さっき藤さんにそう言ったじゃない。


(追いかけなくちゃ…!)


もう会社は出たかもしれないけど、寄り道をしていなければ駅に向かっているはず。追いかけるなら今しかない。

急いでバッグを持った私は、駆け足で会社の出口に向かった。
ヒールを履いていなくて良かった。パンツスタイルとローファーのお陰で走りやすい。やっぱり私にはこのスタイルが合っている。

周りから男に見られようが、もうどうでもいい。桜佑が私を受け入れてくれたら、それでいいから。


エントランスを駆け抜け、外に出る。

そのまま駅の方へ向かおうとしたその時、ふと視界に入った人物に、思わず目を見張った。


「…あれ…なんで…」


歩道の柵に軽く腰を掛けているその人と、視線が絡んだ。

軽く息を切らしながら、その人物にゆっくりと近付く。目の前にたどり着くと、先に口を開いたのは私の方だった。


「桜佑…先に帰ったんじゃ…」

「お前を置いて帰るのは、なんか違うと思って」


息切れをする私を見て、桜佑は眉を下げて笑う。桜佑の笑った顔を見て、自然と目頭が熱くなる。


「私、もう嫌われたのかと思った」

「そんな簡単に嫌いになんねえよ。こんなことでお前を手放すとか、俺の方が無理だし」

「……」

「てかさっきのは完全に俺が悪いだろ。出ていったのは、頭冷やしたかっただけだから。昔から俺は、お前のことになるとどうしても冷静になれない」


鼻の奥がツンとする。目頭に涙がたまって、今にもこぼれ落ちそうだ。

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