甘い罠、秘密にキス
母は近くにあったティッシュを引き抜き、豪快に涙を拭く。そして真っ赤に充血させた目で桜佑を捉えると「おうちゃん」と微かに声を震わせながら彼の名前を呼んだ。
「あなたは昔から、私にとって家族のように大切な子よ。優秀でイケメンで、そして優しくて…自慢の息子だわ」
母がズルズルと鼻をすすりながら言葉を紡ぐと、桜佑は照れくさそうに眉を下げて笑う。
「実の親にも、そんな言葉貰ったことないのにな…」
「あら、だったら私がずっと言い続けるから。ていうか、あなた達が入籍したら本物の家族になるわけだし、もうおうちゃんの親みたいなものでしょ」
おかあさんって呼んでいいわよ?と母が続けると、桜佑は「入籍したらな」と悪戯っぽく笑った。それに対し「その日を楽しみにしてるわね」と返した母は、なんだかとても嬉しそうだった。
それにしても“入籍”という言葉は、なんだかくすぐったい。少し前までの私は、このまま一生独身を貫く勢いだったから、余計に変な感じがする。
このまま順調にいけば、いつか桜佑と…。
想像しただけで胸があたたかくなるのは、桜佑となら幸せな家庭が築ける気がするからなのかな。
「…あれ、そういえば」
ふと、入籍という言葉で思い出したけれど、今日の本来の目的って確か…。
「ああ、そうだったな」
桜佑に目で合図すると、桜佑も思い出したようにハッとした顔をして「肝心なことを忘れるところだった」と独り言のように零した。
バッグから一枚の紙を取り出した私は、それをそっとテーブルの上に置く。そんな私を、母は不思議そうに見つめている。
「婚姻届の証人欄に、お母さんの名前を書いて欲しいの」
なんだか少し恥ずかしくて、おずおずと母の方へ差し出すと、母は一瞬時が止まったかのように固まったと思えば、再び堰を切ったように涙を流し始めた。
「お、お母さん…!?」
「なんだか私が入籍したときのことを思い出しちゃって…そしたら上の子ふたりが入籍した時のことまで蘇ってきて…伊織が最後なのかと思うと…お母さん…う、ゔゔっ…」
「いや、とりあえず記入してもらうだけで、まだ提出する日も決まってないし…」
「おばさん、俺が伊織を必ず幸せにするから」
「おうちゃああぁぁん」
「ちょっと煽らないでくれる?!」
母は泣きすぎてペンも握れなくなってしまったけれど、数十分後には何とか涙も止まり、無事に記入してもらえた。