甘い罠、秘密にキス
『お前から連絡してくんの珍しいな』
そう続けた彼の後ろは、少しガヤガヤとしていた。部下達との飲み会はまだ終わっていないようだ。それを承知の上で連絡をしたつもりだったけれど、やはり罪悪感を抱いてしまう。
何も声を発せないでいると、桜佑が『ちょっと待ってて』と呟いた。その直後、さっきまで聞こえていた雑音がなくなって、彼がお店を出たのが分かった。
わざわざ席を外して電話に出てくれた桜佑の声は、心做しかいつもより優しく感じた。あんなことがあった後だから、そう錯覚しているだけかもしれないけれど。
『で、どうした?愛しの婚約者の声が聞きたくなったか?』
恥ずかしげもなくふざけた台詞を放つ桜佑に、いつもの私なら“そんなわけないでしょ”と可愛げのない言葉を返したと思う。でも今は、そんなしょうもないやり取りで安心している自分がいた。
桜佑の悪戯っぽい笑顔が目に浮かぶ。少し声を聞いただけなのに、手の震えはいつの間にか止まっていた。
でもその代わりに涙が頬を伝い、嗚咽が漏れそうになって慌てて口元を手で覆った。
『…伊織?』
一言も喋らない私を不思議に思ったのか、受話口の向こうで桜佑が『ん?』と首を傾げている。このままだと、スマホに指が当たって勝手に発信しただけの間違い電話だと思われてしまいそうだ。
分かっていても、今声を出すと泣いているのがバレそうで、喋ることが出来ない。それに勢いで掛けたのはいいけど、何を言うか決めていなかったから言葉が出てこない。
『もしもーし』
桜佑のお陰で少し落ち着いたけど、わざわざ店の外に出てまで電話に出てくれた彼にこのまま何も言わないのは失礼だ。
せめて一言、何か伝えられたら…。
「……お、…っすけ…」
聞こえるか分からないくらい小さな声で、何とか彼の名前を紡いだ。
その瞬間、電話の向こうにいる桜佑の空気が、微かに変わった気がした。
『伊織?』
「…ごめっ、」
上手く喋ることが出来なくて、二言目に出たのは謝罪の言葉だった。その直後に嗚咽が漏れて『泣いてんの?』と放った桜佑の声が、少し低くなったのが分かった。