甘い罠、秘密にキス
『どうした?何があった?』
「…立て…な…っ」
『え?怪我でもしたか?』
「…ちがっ…」
『おい大丈夫か』
縋るように、ぽろぽろと溢れ出す弱音に、桜佑が困惑しているのが分かる。今までどんなにいじめられようが、桜佑の前で泣いたことなんてなかったから。
もっとハッキリ喋ろうとしても、嗚咽ばかりで上手く言葉を紡げない。あの酔っ払い男に掴まれたところが疼いて痛い。
あいつらの酒の臭い、鋭い視線に不気味な笑み。思い出しただけで気持ち悪くなる。
「…っ、…こわ、くて…」
一瞬、もう逃げられないかもと思った時の恐怖が蘇ってきて、考えるより先にそう零してた。
桜佑の『伊織?』と焦ったような声が耳に届く。
『…お前、今どこにいる』
「…駅の…近く…っ」
『分かった。すぐ行くからそこにいて』
迷いなくそう放った桜佑に、慌てて「待って」と声を掛けた。『どうした?』と尋ねてくる彼は、もうこちらに向かおうとしているのか店内に戻っている。
賑やかな場所にいる桜佑に自分の声が届くか心配だったけれど「飲み会は…」と一言呟けば、桜佑は『接待じゃないし問題ねえよ』と即答した。
『ここから結構近いからすぐ着くと思うけど、電話繋げとくか?』
優しい声音に、ぎゅっと胸が締め付けられる。小さく頷くと『俺の息が切れてても笑うなよ』と冗談っぽく付け加えてくるから、思わず頬が緩んだ。
その後桜佑は本当にずっと電話を繋いでくれていた。
あまり聞き取れなかったけれど、皆に断りを入れた桜佑はすぐに店を出て、時折私に『大丈夫か?』と声を掛けながら走り続けた。
飲み会に参加していたメンバーには申し訳ないことをしてしまったけれど、桜佑が来てくれると思うだけで自然と心が落ち着いた。
どれくらい受話口に耳を傾けていただろうか。
『あと少し』の声とともに徐々に近付いてくる足音に、自然と身構えてしまう。けれど、
「──伊織」
電話越しではない、本物の声に反応した私は、膝に埋めていた顔をゆっくりと上げた。
息を切らしている桜佑と視線が重なる。次の瞬間、その大きな腕に包まれた。