婚約破棄された崖っぷち令嬢ですが、王太子殿下から想定外に溺愛されています
「っ、あの、ヴァレンス殿下……一体、何がなんだか、私には……」
少しでも歩くスピードを落としてもらおうと声をかける。そこへようやく我に返ったトマスが怒りの形相で叫びながらアルテミラの腕をつかもうと手を伸ばした。
「アルテミラ、待て!」
反射的に振り返ると、トマスの周りに薄気味悪い黒いモヤのようなものが漂っていた。今までに見たこともないそのモヤは、トマスの腕に絡まりアルテミラへと向かってくる。
アルテミラは、ぞくり、と背筋に冷たいものが走るのを感じた。あのモヤは良くないものだと直感する。
(嫌、触らないで!)
そう思った、一瞬のことだった。
「――“ティレッド”」
ヴァレンスの口から呪文が放たれると、いきなりトマスの前髪に火がついた。
「熱っ! ひっ、あ……」
慌てて自分の頭を叩きなんとか火を消したトマスは、火をつけたヴァレンスではなく、まるでお前のせいだと言いたげにアルテミラを睨む。
その視線にアルテミラがビクッと体を強張らせると、ヴァレンスは彼女をトマスから自分の背で隠すようにして一歩前に出た。
「なんだ、貴様は弱い者にしか強く出られないのか? この程度の魔法すら防げない男らしいな」
「っ、いえ、殿下……そんな、ことは」
ヴァレンスは言い当てられて目をそらしたトマスの胸ぐらをつかみ、扉の横の壁に押しつけた。
――ダンッ。
思わず目を瞑ってしまうほど大きな音が立ち、強く押しつけられたトマスは息をするのも苦しそうにもがく。
真実の愛で結ばれて引き離せないはずのクレアージュは怯え、近くに寄ろうともしない。
それを冷ややかな目で見ながらヴァレンスが吐き捨てるように言った。
「貴様の言う通りだ。無能な婚約者ほど役に立たないものはない。……そうだろう? 貴様が離れただけで、アルテミラ嬢には聖女候補という箔がついたのだからな」
ヴァレンスが手を離すと、その場に足から崩れ落ちるトマス。綺麗に整えられた前髪は焼け崩れ、新調した服はよれ、さきほどまでの自信に溢れた姿は見る影もなくなっている。
言葉にならない金切り声を上げるクレアージュとトマスを置き捨て、ヴァレンスは再びアルテミラの手を取った。
「行こう。聖女候補がいなければ、パーティーが始まらない」
「え、え……あ、はい」
トマスたちのことも気になるが、王太子の命令に逆らうことなど考えられない。
(ど……どうしよう。このままついて行くしかないわよね……)
アルテミラは自分の意見も言うことができず、なすがままに引きずられるようにしてヴァレンスの後について行く。
そうしてヴァレンスは不機嫌そうな顔のままパーティー会場へと入った。明るく華やかな場内は、王太子の登場にいっそう賑わいを増す。
挨拶に近寄ってきた者たちがアルテミラを見て怪訝そうにしていると、ヴァレンスは彼女の腰に手を当ててはっきりと宣言した。
「紹介しよう、新たな聖女候補のアルテミラ嬢だ」
周囲が呆気に取られているなか、一人冷や汗をかくアルテミラ。
(う……噓! 本当に!?)
状況についていけず固まっていると、あれよあれよという間に会場奥まで連れていかれてしまい、生まれて初めて国王にも謁見してしまった。
一緒に馬車に乗ってきた、アルテミラの両親であるフーデンタル伯爵夫妻も遠巻きに目を点にして固まっている。
(なんでっ!? どうして私、こんな大ごとに巻き込まれているの……?)
アルテミラは引きつる顔を押さえつつ、ヴァレンスに言われるままに挨拶を交わしていく。勿論、何を話しているのかなどは一切頭に入ってこない。
ついさっき自分自身に起こった一方的な婚約破棄の言葉も、すでに遠い過去の話になっている。
(どうしよう。私、聖女候補なんかじゃないのに……。
――お願い、誰か、これを夢だと言って!)