千燈花〜ETERNAL LOVE〜
橘宮にて
ちょうど午前中の仕事を終えて部屋の前に来たところで、門番の漢人に呼び止められた。
「燈花様、冬韻様がお越しです」
「冬韻様が?」
「はい、中庭にお通しいたしました」
「…そう、すぐに行くわ」
私はそう答えると急いで着替えを済ませ中庭へと向かった。山代王ではなく冬韻が来たという事は、やはり物事はそう簡単には進まないのだろう…。
庭の端に都を見つめる冬韻の少し痩せた背中があった。私は適度な距離の所で足を止め、一度大きく深呼吸したあと声をかけた。
「冬韻様…」
冬韻がすっと振り返った。少しだけ肩を落とした姿と物静かな澄んだ瞳が彼の落胆を物語っている。
「こんなことになるなんて思っていなかったのです…」
なぜか彼を裏切ってしまったような罪悪感が沸き起こり思わず言い訳がましく言った。
「燈花様が悪いのではありません。これも全て運命なのでしょう…」
冬韻は澄んだ瞳でため息まじりに答えると、私を諭すように穏やかな口調で続けた。
「燈花様に非はございません。ただ、時期が非常に悪いのです。本日、王様はお見えになられません。事情があるのです、どうかお察し頂きたく思います」
「…えぇ」
私は小さな声で答えうつむいた。
「ご存知かと思いますが、厩坂宮におられる田村皇子様のご容態がよろしくありません。体調はますます悪化するばかり、正直に申し上げますと大変緊迫している状態です。朝廷の大臣や大連達も今後の行く先への不安と憂慮からか朝廷だけでなく都全体が非常に不安定です。王様の力でなんとか平穏を保っている状態なのです。そして、昨年後宮に入宮された白蘭様もご懐妊中で、最近やっと体調が回復したばかりで王様の支えが必要な時です」
「はい…」
「率直に申し上げますと、しばらくは王様にお会いするのは難しいかと…。朝廷が安定を取り戻した後、正式な順序を踏み大義名分のもと燈花様を後宮にお迎えするのが最も安全で最適な方法だと思うのです。そこで、私の案なのですが、燈花様は薬草や野草にお詳しいですし朝廷の薬草庫で少しの間、働かれるのはどうでしょうか?あそこなら、毎日とはいきませんが王様が朝廷に出廷した時に互いに堂々とお会いしお話することができます。朝廷の陰に潜み人を陥れるような陰湿な輩たちに王様の足元をすくわせるわけにはいきません。どうかお聞き入れください」
冬韻が深々と頭を下げた。彼が言う事はこれ以上ないくらいにもっともだ。歴史書と私の記憶が正しければ舒明天皇の余命はいくばくもなく、きっと朝廷に大きな混乱が起きる。山代王も例外なくこの混乱の渦にのまれるだろう。冬韻の提案に反論する気など微塵も起きなかった。
「仰るとおりに致します」
私が素直に彼の案を受け入れた事にホッとしたのか冬韻は顔を上げると安堵の笑みを浮かべた。彼にとって私の登場は不本意であっただろうに、それでも私の為に奔走してくれる姿に誠実さを感じた。彼は山代王にとって何物にも代えがたい真の忠実な側近である。彼が山代王から絶大な信頼と寵愛を受ける理由に心から納得した。
張り詰めていた雰囲気を破るように冬韻が軽やかな口調で言った。
「では、すぐにでも薬草庫の担当の者に話します。また追ってご連絡いたします」
「わかりました」
私が答えると冬韻は再び微笑み、一礼をしてその場を去った。色々な展開を事前にシュミレーションしていたもののやはり心は正直だ。ズキンと胸が傷んだ。私はすぐに部屋に戻る気になれず再び飛鳥の都を眺めた。
あいにくの空模様は意地悪く薄暗い雲で都を覆っている。山代王に会えない切なさが込み上げたが仕方がない。もう彼は以前のように自由な立場ではないし、後宮にも家族がいるのだから当然といえば当然だ。もはや私だけのものではないのだと改めて思い知らされた気がした。
ちょうど午前中の仕事を終えて部屋の前に来たところで、門番の漢人に呼び止められた。
「燈花様、冬韻様がお越しです」
「冬韻様が?」
「はい、中庭にお通しいたしました」
「…そう、すぐに行くわ」
私はそう答えると急いで着替えを済ませ中庭へと向かった。山代王ではなく冬韻が来たという事は、やはり物事はそう簡単には進まないのだろう…。
庭の端に都を見つめる冬韻の少し痩せた背中があった。私は適度な距離の所で足を止め、一度大きく深呼吸したあと声をかけた。
「冬韻様…」
冬韻がすっと振り返った。少しだけ肩を落とした姿と物静かな澄んだ瞳が彼の落胆を物語っている。
「こんなことになるなんて思っていなかったのです…」
なぜか彼を裏切ってしまったような罪悪感が沸き起こり思わず言い訳がましく言った。
「燈花様が悪いのではありません。これも全て運命なのでしょう…」
冬韻は澄んだ瞳でため息まじりに答えると、私を諭すように穏やかな口調で続けた。
「燈花様に非はございません。ただ、時期が非常に悪いのです。本日、王様はお見えになられません。事情があるのです、どうかお察し頂きたく思います」
「…えぇ」
私は小さな声で答えうつむいた。
「ご存知かと思いますが、厩坂宮におられる田村皇子様のご容態がよろしくありません。体調はますます悪化するばかり、正直に申し上げますと大変緊迫している状態です。朝廷の大臣や大連達も今後の行く先への不安と憂慮からか朝廷だけでなく都全体が非常に不安定です。王様の力でなんとか平穏を保っている状態なのです。そして、昨年後宮に入宮された白蘭様もご懐妊中で、最近やっと体調が回復したばかりで王様の支えが必要な時です」
「はい…」
「率直に申し上げますと、しばらくは王様にお会いするのは難しいかと…。朝廷が安定を取り戻した後、正式な順序を踏み大義名分のもと燈花様を後宮にお迎えするのが最も安全で最適な方法だと思うのです。そこで、私の案なのですが、燈花様は薬草や野草にお詳しいですし朝廷の薬草庫で少しの間、働かれるのはどうでしょうか?あそこなら、毎日とはいきませんが王様が朝廷に出廷した時に互いに堂々とお会いしお話することができます。朝廷の陰に潜み人を陥れるような陰湿な輩たちに王様の足元をすくわせるわけにはいきません。どうかお聞き入れください」
冬韻が深々と頭を下げた。彼が言う事はこれ以上ないくらいにもっともだ。歴史書と私の記憶が正しければ舒明天皇の余命はいくばくもなく、きっと朝廷に大きな混乱が起きる。山代王も例外なくこの混乱の渦にのまれるだろう。冬韻の提案に反論する気など微塵も起きなかった。
「仰るとおりに致します」
私が素直に彼の案を受け入れた事にホッとしたのか冬韻は顔を上げると安堵の笑みを浮かべた。彼にとって私の登場は不本意であっただろうに、それでも私の為に奔走してくれる姿に誠実さを感じた。彼は山代王にとって何物にも代えがたい真の忠実な側近である。彼が山代王から絶大な信頼と寵愛を受ける理由に心から納得した。
張り詰めていた雰囲気を破るように冬韻が軽やかな口調で言った。
「では、すぐにでも薬草庫の担当の者に話します。また追ってご連絡いたします」
「わかりました」
私が答えると冬韻は再び微笑み、一礼をしてその場を去った。色々な展開を事前にシュミレーションしていたもののやはり心は正直だ。ズキンと胸が傷んだ。私はすぐに部屋に戻る気になれず再び飛鳥の都を眺めた。
あいにくの空模様は意地悪く薄暗い雲で都を覆っている。山代王に会えない切なさが込み上げたが仕方がない。もう彼は以前のように自由な立場ではないし、後宮にも家族がいるのだから当然といえば当然だ。もはや私だけのものではないのだと改めて思い知らされた気がした。