千燈花〜ETERNAL LOVE〜
帰りの時間まで林臣から厳しい手ほどきを受けた。スパルタだ。私を戦にでも連れていくつもりだろうか。帰り道、腕は上がらないし指にも全く力が入らない。当然馬の手綱なんて持てないので猪手に馬車で送ってもらう事になった。
ガタガタと馬車がゆっくり走り始めた。私は擦れて赤くなった指に息を吹きかけながら、猪手にとある事を尋ねてみた。
「ねぇ、猪手さん。私、林臣様が臣下達と一緒にいるか、あなたと一緒か、もしくは一人でいらっしゃる所しか見たことがないのだけれど…確か夫人はいらしたわよね?」
去年の夏の朝、嶋宮の苑池で二人で蓮を見た事を思い出していた。あの時、屋敷の使用人が夫人の名を叫んでいたのを聞いたが姿を一向に見ないので不思議に感じていた。
「もちろんいらっしゃいます。正妃の月杏様がおいでです。月杏様は葛城一体を牛耳る豪族の出自で、十六歳の時に若様にもとに嫁がれました。住まいは別々ですが、お子達にも恵まれ健やかにお育ちです」
「…そう」
「それが何か?」
猪手が不思議そうに言った。私は鼻で軽く笑ったあと答えた。
「いえ…大した事ではないのよ。夫人や侍女と一緒にいるのを見たことがなかったから、聞いてみただけよ」
「確かに、若様はめずらしく正妃の月杏様だけを娶っておいでです。普通あれほどに権力があり身分の高いお方ですと、何人も側女がおりますが、若様はなぜか頑なに拒否されるのです」
「そう…よほど夫人のことを愛していらっしゃるのね」
「ん~…」
猪手は手を顎に置き目をつむり少し考え込んだあと、意味深な声で言った。
「燈花様、今から話すことは若様には絶対に内緒にして下さいますか?」
…キタ。猪手が目を細め指でシーっと口を押える仕草をした瞬間に怪しい匂いをプンプンと感じた。これで私も彼の弱みを握れるかもしれないと思うと更に心が弾んだ。私は絶好のチャンスに目をキラキラさせて即座に答えた。
「もちろんよ」
猪手は大きく頷くと静かに話を始めた。
「実はわたくしの中でもずっと、そのことが疑問なのです。若様と月杏様は互いに生まれた時から婚姻が交わされております。幼き頃より真の兄弟にようにお育ちになっておられます。確かに月杏様を大切にされておりますが…何と言うか、…感情が…そのぉ…兄と妹のようなものに思えてならないのです。若様は幼少期より勉学に励み十代の時は足しげく僧旻先生のもとに通われ大唐の学問を学ばれました。若様は大変聡明で、朝鮮三国や大陸の情勢を熟知されており、各国との深い親交を築き上げておいでです。おそらく朝廷で若様の右に出る知識をお持ちの方はいらっしゃらないかと…。政においても寸分の抜かりも妥協もなく完璧なまでに物事を動かしておいでです。私も長い間若様にお仕えしておりますが、その…女人などの浮いた話を聞いたことがなく…若様の目にうつるのはこの国の行く末ばかり。朝廷での政や他国との外交ばかりで…」
猪手は軽くため息をつき宙を仰いだ。私はたいした秘密でもない結果に少しガッカリしていた。今後の切り札にと悪知恵を働かせた自分がそもそも情けないのだけど…。
「…つまり、女人には関心がない…でもそれの何が問題なの?」
私は眉をひそめ尋ねた。
「い、いえ、そうではないのです…。若様は多くの大臣や大連様達のように女人に惑わされ、それに労力を費やすような無駄なことは一切いたしません。朝廷では小さな失敗でも足を救われますし、苦労して築き上げた地位や権力を一瞬で失うような愚かな行動は間違ってもいたしません。同様に一時の気の迷いで感情的になったり、道を踏み間違えた事も今までに一度もありません…ただ…」
猪手が再び言葉を濁した。
「ただ?」
「ただ…人生に面白みがないというか…生活に彩りがないと言うか…人間味がないというか…す、すみません!決して悪口ではないのです、朝廷や政ばかりに囚われずに生きられれば、もっと自由で楽しく気楽なんじゃないかと思いまして…」
猪手が手をもじもじ擦りながらうつむいた。
彼もまたとても誠実で主人に忠実な良い臣下だ。
「あなたのような良い臣下を持ち林臣様は幸せ者ね」
私が言うと猪手は真っ赤になって鼻を擦った。
ガタガタと馬車がゆっくり走り始めた。私は擦れて赤くなった指に息を吹きかけながら、猪手にとある事を尋ねてみた。
「ねぇ、猪手さん。私、林臣様が臣下達と一緒にいるか、あなたと一緒か、もしくは一人でいらっしゃる所しか見たことがないのだけれど…確か夫人はいらしたわよね?」
去年の夏の朝、嶋宮の苑池で二人で蓮を見た事を思い出していた。あの時、屋敷の使用人が夫人の名を叫んでいたのを聞いたが姿を一向に見ないので不思議に感じていた。
「もちろんいらっしゃいます。正妃の月杏様がおいでです。月杏様は葛城一体を牛耳る豪族の出自で、十六歳の時に若様にもとに嫁がれました。住まいは別々ですが、お子達にも恵まれ健やかにお育ちです」
「…そう」
「それが何か?」
猪手が不思議そうに言った。私は鼻で軽く笑ったあと答えた。
「いえ…大した事ではないのよ。夫人や侍女と一緒にいるのを見たことがなかったから、聞いてみただけよ」
「確かに、若様はめずらしく正妃の月杏様だけを娶っておいでです。普通あれほどに権力があり身分の高いお方ですと、何人も側女がおりますが、若様はなぜか頑なに拒否されるのです」
「そう…よほど夫人のことを愛していらっしゃるのね」
「ん~…」
猪手は手を顎に置き目をつむり少し考え込んだあと、意味深な声で言った。
「燈花様、今から話すことは若様には絶対に内緒にして下さいますか?」
…キタ。猪手が目を細め指でシーっと口を押える仕草をした瞬間に怪しい匂いをプンプンと感じた。これで私も彼の弱みを握れるかもしれないと思うと更に心が弾んだ。私は絶好のチャンスに目をキラキラさせて即座に答えた。
「もちろんよ」
猪手は大きく頷くと静かに話を始めた。
「実はわたくしの中でもずっと、そのことが疑問なのです。若様と月杏様は互いに生まれた時から婚姻が交わされております。幼き頃より真の兄弟にようにお育ちになっておられます。確かに月杏様を大切にされておりますが…何と言うか、…感情が…そのぉ…兄と妹のようなものに思えてならないのです。若様は幼少期より勉学に励み十代の時は足しげく僧旻先生のもとに通われ大唐の学問を学ばれました。若様は大変聡明で、朝鮮三国や大陸の情勢を熟知されており、各国との深い親交を築き上げておいでです。おそらく朝廷で若様の右に出る知識をお持ちの方はいらっしゃらないかと…。政においても寸分の抜かりも妥協もなく完璧なまでに物事を動かしておいでです。私も長い間若様にお仕えしておりますが、その…女人などの浮いた話を聞いたことがなく…若様の目にうつるのはこの国の行く末ばかり。朝廷での政や他国との外交ばかりで…」
猪手は軽くため息をつき宙を仰いだ。私はたいした秘密でもない結果に少しガッカリしていた。今後の切り札にと悪知恵を働かせた自分がそもそも情けないのだけど…。
「…つまり、女人には関心がない…でもそれの何が問題なの?」
私は眉をひそめ尋ねた。
「い、いえ、そうではないのです…。若様は多くの大臣や大連様達のように女人に惑わされ、それに労力を費やすような無駄なことは一切いたしません。朝廷では小さな失敗でも足を救われますし、苦労して築き上げた地位や権力を一瞬で失うような愚かな行動は間違ってもいたしません。同様に一時の気の迷いで感情的になったり、道を踏み間違えた事も今までに一度もありません…ただ…」
猪手が再び言葉を濁した。
「ただ?」
「ただ…人生に面白みがないというか…生活に彩りがないと言うか…人間味がないというか…す、すみません!決して悪口ではないのです、朝廷や政ばかりに囚われずに生きられれば、もっと自由で楽しく気楽なんじゃないかと思いまして…」
猪手が手をもじもじ擦りながらうつむいた。
彼もまたとても誠実で主人に忠実な良い臣下だ。
「あなたのような良い臣下を持ち林臣様は幸せ者ね」
私が言うと猪手は真っ赤になって鼻を擦った。