千燈花〜ETERNAL LOVE〜
馬車が橘宮に到着した。あたりはもう薄暗く春の冷えた風が頬に当たった。
「燈花様、そういえば若様より言付けを賜っておりました」
「え?」
「また、弓の練習に付き合えと。次は百本射るまで終わらないと、おっしゃっておりました」
猪手が苦笑いをし腰を折り曲げながら言った。
「ええ⁉︎」
私が大声を上げると、
「燈花様とご一緒されている若様は、なんだか楽しそうです」
猪手がクスッと笑って言った。
「ハァ…私は林臣様にとって女人ではなく、取るに足らない家臣と一緒なのね。わかったわ、いつの日か林臣様を弓で負かせるように腕を磨くわ」
私は鼻を膨らませ興奮しながら腕の袖をめくりあげた。
「さすが燈花様、やはり普通の女人とはだいぶかけ離れておいでです。では、またお迎えにあがります」
もはや普通でない女人という言葉が褒め言葉にも感じる。猪手は嬉しそうに笑うと野草で一杯の籠を地面に置き去っていった。
まったく…何を考えているんだか…こんなに林臣様に関わっていて大丈夫だろうかと一瞬不安になったが、今後の山代王との新しい生活が始まればこれも過去の良き思い出となると思い直した。
私はこの時期、林臣を知れば知るほど、彼を待ち受ける壮絶な最期が不思議と脳裏から薄れていった。心の奥底では考えないように避けていたのかもしれない。
クタクタの体と足に鞭を打ち大きな野草でいっぱいの籠を引きずりながら宮の門をくぐった。門の脇に一本だけ植えられた桃の木に小さなピンクの花がまだ少しだけ残っている。去年、桃林で酔い潰れた夜を思い出しなんだか可笑しくて一人笑った。
林臣の弓の訓練に付き合い始めてから一か月以上過ぎた。この間私は何度か半強制的に彼の弓の訓練に付き合わされている。もちろん彼は毎回スパルタ方式で私に弓矢を教えてくれた。そのうち弓の名手として戦にかりだされそうだ。
田畑や山々は青々と生い茂りいつのまにか季節は初夏を迎えていた。
「燈花様、また今日も弓を射に行かれるのですか⁉︎」
小彩が眉間にシワを寄せながら声を荒げた。
「仕方ないじゃない、林臣様からの誘いを理由もなく断れないわよ。でも季節ごとの旬の山菜や野草もつめるし、馬を走らせるのも弓を引くのも気分転換になるし好きだわ」
「はぁ…自由奔放な燈花様が心配です。この先山代王様の後宮に入られるご予定なのに…」
小彩が両手で頭を抱えて言った。
「大丈夫よ。この先はきっと窮屈な生活だと思うから、今のうちに羽を伸ばしておくわ。私最近弓矢の腕をあげたのよ」
私が言うと小彩は、
「なんと呑気な…でも、お気を付けください」
と、あきらめた様子でため息まじりに言い部屋から出て行った。
「ハッ!ハッ!」
いつものように猪手と共に新緑の中、馬を走らせた。今日も晴天だ。青空と美しい田園風景に癒されながら高取山の麓を目指した。
到着するなり猪手が言った。
「燈花様。私、本日別の用がありすぐに都に戻らねばならぬのです。帰りは別の者がお供いたしますので」
「そうなの?先に言ってくれれば良かったのに、わざわざ迎えに来てもらって悪かったわ」
「いえ、とんでもありません、私の仕事ですので。では、失礼いたします」
猪手はそう言い軽く頭を下げると、また馬にまたがり来た道を戻っていった。
猪手を見送った後、いつものように山菜や野草を探し始めた。季節ごとに違う野草が採れるので、毎回新鮮でとにかく楽しい。籠の中がだいぶいっぱいになったので、少し背の高い草むらの方へと移動した。
腰が痛くなったので立ち上がると野原の奥に一人佇む林臣の姿が見えた。考え事をしているのか突っ立ったまま動かない。不思議に思ったが、とにかく昼までにありたけの山菜と野草を摘みたくて再び腰をかがめた。ちょうど草を分けていると、ひょこっとモグラが土の中から顔を出した。
「キャーッ!!」
私は驚いて後ろによろけ、運悪く石に躓きそのまま転倒した。叫び声を聞いた林臣が驚いた表情で駆けつけた。春先に彼から不注意すぎると怒られたばかりな事を思い出し、お説教が始まる前に両手で耳をふさいだ。
「どうした⁉︎大丈夫か?」
駆けつけた林臣はめずらしく心配している様子だ。私は拍子抜けしたあと立ち上がろうとしたが足首が痛くて力が入らない。
「イタタ…」
「動くな」
林臣はそう言うと私を抱き上げ草むらの中を歩いた。広い野原に出た所で私を降ろし足首を触った。
「骨折はしておらぬ。軽い捻挫だ」
そう言うと袖のたもとから蝶番の貝殻を取り出し開いた。貝の内側に薄茶色の軟膏のようなものが見えた。私は彼がいつ怒り出すのだろうとびくびくしたが彼は黙ったまま貝の中の軟膏をすくいだし、少し赤くなっている足首に塗っている。ふっと貝殻からあの薬草の匂いが漂った。
この香り……間違いない…あの時と同じもの。やっぱり林臣様のものだったのね…。
「今日はもう戻ろう、天気も崩れそうだ」
「はい…」
確かに朝は青空だったのに今は薄曇り東の空は更に暗い雲がたちこめている。
少しすると私達のところに見慣れぬ臣下が駆け付けてきて言った。
「大丈夫ですか?お怪我を?本日は猪手様が不在なので私が橘宮までお送りいたします」
「私が送ってゆく」
林臣が静かに言った。
「えっ?しかし、若様のお立場では…」
臣下の男が困惑気味に言った。
「かまわぬ。燈花、屋敷に戻るぞ。お前はこの籠を後で宮まで届けよ」
「はっ、はい!」
林臣は男に籠を預け口笛を吹いた。遠くから彼の馬が走ってきた。林臣は私を持ち上げ馬の背に乗せるとさっと後ろに飛び乗った。彼の掛け声とともにゆっくりと馬が走り始めた。たいした怪我ではないと知っているはずなのに、今日の彼はいつになく無口だ。
「林臣様、今日はなぜかいつもと違うような…何かあったのですか?」
「……」
彼は黙ったまま前を向き何も答えない。私も黙ったまま水田の上ギリギリを低空飛行する燕を見つめた。
「燈花様、そういえば若様より言付けを賜っておりました」
「え?」
「また、弓の練習に付き合えと。次は百本射るまで終わらないと、おっしゃっておりました」
猪手が苦笑いをし腰を折り曲げながら言った。
「ええ⁉︎」
私が大声を上げると、
「燈花様とご一緒されている若様は、なんだか楽しそうです」
猪手がクスッと笑って言った。
「ハァ…私は林臣様にとって女人ではなく、取るに足らない家臣と一緒なのね。わかったわ、いつの日か林臣様を弓で負かせるように腕を磨くわ」
私は鼻を膨らませ興奮しながら腕の袖をめくりあげた。
「さすが燈花様、やはり普通の女人とはだいぶかけ離れておいでです。では、またお迎えにあがります」
もはや普通でない女人という言葉が褒め言葉にも感じる。猪手は嬉しそうに笑うと野草で一杯の籠を地面に置き去っていった。
まったく…何を考えているんだか…こんなに林臣様に関わっていて大丈夫だろうかと一瞬不安になったが、今後の山代王との新しい生活が始まればこれも過去の良き思い出となると思い直した。
私はこの時期、林臣を知れば知るほど、彼を待ち受ける壮絶な最期が不思議と脳裏から薄れていった。心の奥底では考えないように避けていたのかもしれない。
クタクタの体と足に鞭を打ち大きな野草でいっぱいの籠を引きずりながら宮の門をくぐった。門の脇に一本だけ植えられた桃の木に小さなピンクの花がまだ少しだけ残っている。去年、桃林で酔い潰れた夜を思い出しなんだか可笑しくて一人笑った。
林臣の弓の訓練に付き合い始めてから一か月以上過ぎた。この間私は何度か半強制的に彼の弓の訓練に付き合わされている。もちろん彼は毎回スパルタ方式で私に弓矢を教えてくれた。そのうち弓の名手として戦にかりだされそうだ。
田畑や山々は青々と生い茂りいつのまにか季節は初夏を迎えていた。
「燈花様、また今日も弓を射に行かれるのですか⁉︎」
小彩が眉間にシワを寄せながら声を荒げた。
「仕方ないじゃない、林臣様からの誘いを理由もなく断れないわよ。でも季節ごとの旬の山菜や野草もつめるし、馬を走らせるのも弓を引くのも気分転換になるし好きだわ」
「はぁ…自由奔放な燈花様が心配です。この先山代王様の後宮に入られるご予定なのに…」
小彩が両手で頭を抱えて言った。
「大丈夫よ。この先はきっと窮屈な生活だと思うから、今のうちに羽を伸ばしておくわ。私最近弓矢の腕をあげたのよ」
私が言うと小彩は、
「なんと呑気な…でも、お気を付けください」
と、あきらめた様子でため息まじりに言い部屋から出て行った。
「ハッ!ハッ!」
いつものように猪手と共に新緑の中、馬を走らせた。今日も晴天だ。青空と美しい田園風景に癒されながら高取山の麓を目指した。
到着するなり猪手が言った。
「燈花様。私、本日別の用がありすぐに都に戻らねばならぬのです。帰りは別の者がお供いたしますので」
「そうなの?先に言ってくれれば良かったのに、わざわざ迎えに来てもらって悪かったわ」
「いえ、とんでもありません、私の仕事ですので。では、失礼いたします」
猪手はそう言い軽く頭を下げると、また馬にまたがり来た道を戻っていった。
猪手を見送った後、いつものように山菜や野草を探し始めた。季節ごとに違う野草が採れるので、毎回新鮮でとにかく楽しい。籠の中がだいぶいっぱいになったので、少し背の高い草むらの方へと移動した。
腰が痛くなったので立ち上がると野原の奥に一人佇む林臣の姿が見えた。考え事をしているのか突っ立ったまま動かない。不思議に思ったが、とにかく昼までにありたけの山菜と野草を摘みたくて再び腰をかがめた。ちょうど草を分けていると、ひょこっとモグラが土の中から顔を出した。
「キャーッ!!」
私は驚いて後ろによろけ、運悪く石に躓きそのまま転倒した。叫び声を聞いた林臣が驚いた表情で駆けつけた。春先に彼から不注意すぎると怒られたばかりな事を思い出し、お説教が始まる前に両手で耳をふさいだ。
「どうした⁉︎大丈夫か?」
駆けつけた林臣はめずらしく心配している様子だ。私は拍子抜けしたあと立ち上がろうとしたが足首が痛くて力が入らない。
「イタタ…」
「動くな」
林臣はそう言うと私を抱き上げ草むらの中を歩いた。広い野原に出た所で私を降ろし足首を触った。
「骨折はしておらぬ。軽い捻挫だ」
そう言うと袖のたもとから蝶番の貝殻を取り出し開いた。貝の内側に薄茶色の軟膏のようなものが見えた。私は彼がいつ怒り出すのだろうとびくびくしたが彼は黙ったまま貝の中の軟膏をすくいだし、少し赤くなっている足首に塗っている。ふっと貝殻からあの薬草の匂いが漂った。
この香り……間違いない…あの時と同じもの。やっぱり林臣様のものだったのね…。
「今日はもう戻ろう、天気も崩れそうだ」
「はい…」
確かに朝は青空だったのに今は薄曇り東の空は更に暗い雲がたちこめている。
少しすると私達のところに見慣れぬ臣下が駆け付けてきて言った。
「大丈夫ですか?お怪我を?本日は猪手様が不在なので私が橘宮までお送りいたします」
「私が送ってゆく」
林臣が静かに言った。
「えっ?しかし、若様のお立場では…」
臣下の男が困惑気味に言った。
「かまわぬ。燈花、屋敷に戻るぞ。お前はこの籠を後で宮まで届けよ」
「はっ、はい!」
林臣は男に籠を預け口笛を吹いた。遠くから彼の馬が走ってきた。林臣は私を持ち上げ馬の背に乗せるとさっと後ろに飛び乗った。彼の掛け声とともにゆっくりと馬が走り始めた。たいした怪我ではないと知っているはずなのに、今日の彼はいつになく無口だ。
「林臣様、今日はなぜかいつもと違うような…何かあったのですか?」
「……」
彼は黙ったまま前を向き何も答えない。私も黙ったまま水田の上ギリギリを低空飛行する燕を見つめた。