千燈花〜ETERNAL LOVE〜
新たな土地ヘ
「燈花様、起きられましたか?」
「う~ん、今起きるわ…」
「燈花様、早く起きないとお日様が空高く上がってしまいますよ」
蝉の鳴き声と共にいつもと変わらぬ朝が始まった。あと数日でこの宮を去るなんて本当なのだろうか?戸口の横にひっそりと咲く紫陽花の花を見つめた。
部屋をくまなく見てもまとめる荷物がたいしてない。いつものように軽く掃除を済ませ、中庭へと向かった。今日も朱色の都は太陽に照らされ輝いている。この景色もあと数日で見納めだなんて到底信じられない。
「燈花様」
振り返ると小彩が包みと茶器を抱えて立っていた。
「今日は天気が良いので、ここで昼食をとりませんか?」
「えぇ、もちろんよ」
私は喜んで応じた。包みの中は玄米のおにぎりがいくつもにぎられ、茶器からは金木犀の甘い香りが漂った。
「美味しそう、ありがとう。あなたの作ってくれる、おにぎりと粥が一番美味しいわ…」
私の顔が暗く沈んだのだろうか?小彩は慌ててにっこりとし茶目っ気たっぷりに言った。
「そんな、王宮ではもっと豪華で美味しいお食事が出てきますよ。海とやらで採れる食材はこの上なく美味だそうです。確かアワビとかなんとか…」
「いえ、あなたの作る粥が一番よ。必ず恋しくなるわ…」
私がおにぎりを一口かじると小彩は黙ってうつむいた。また、しんみりとしてしまった。一生涯会えなくなるわけではないのだから、もっと明るく気丈でいないと彼女はずっと私を心配するだろう…そんな憂いをこの先彼女に抱かせてはいけない。
私は気持ちを切り替え出来る限りの笑顔を作り再び彼女を見た。そして、彼女の少し安堵した表情を確認したあと、今まで聞いていなかった彼女の今後について尋ねた。
「ねぇ、小彩、私がここから去ったらあなたはどうするの?」
「はい、しばらくは橘宮に留まろうと思っています。ご縁があり、近江皇子様の身辺のお世話をする機会をいただけたので、この宮から皇子様の邸宅に通うつもりです」
「近江皇子様?って、私が談山神社で出会ったあの蹴鞠の少年かしら?」
「はい、さようでございます。今は数年前に新羅より帰国されました請安先生のもとで周礼という学問を学ばれているそうです」
「そう…」
近江皇子って、中大兄皇子ね…あの体格の良いお付きの男が中臣鎌足…一応確かめないと…
「確か、皇子様の側近の男性の名は、鎌足様…かしら?」
彼らの歴史を知っている事を疑われるはずはないが、念のため少しだけとぼけたような口調で尋ねた。
「は、はい。さようでございます…、なぜ燈花様があの方の名をご存知なのですか?」
小彩が驚いた表情で私を見た。
「あっ、あの皇子様が彼をそう呼んだのを聞いたのよ」
「あぁ、そうでございましたか…」
小彩は照れくさそうに微笑むと頬を赤らめうつむいた。近江皇子も鎌足も今後の日本の歴史に大きく関わってくる人物だけに、内心私の心は穏やかではなかった。でも彼女にとっては明るく希望に満ちた未来なのだろう、彼女の笑みを見てひとまず安心することにした。