千燈花〜ETERNAL LOVE〜
 翌日は朝から新しい生活への緊張と不安が一気に押し寄せ、夕刻になるまで屋敷の中を落ち着きなくただウロウロとしていた。小彩(こさ)が何度も気遣って声をかけてくれたが、上の空だった。明後日にはこの慣れ親しんだ橘宮(たちばなのみや)を去る…宮の皆や小彩(こさ)と共に過ごすのも明日の夜が最後だ。

  新しい土地や生活にすぐに慣れるだろうか… 王妃様は快く受け入れて下さるだろうか…

 夕刻になり猪手(いて)が約束通り迎えに来た。

 「小彩(こさ)嶋宮(しまのみや)に行ってくるわ」

 「はい、お気をつけて。明日は衣を合わせますので、なるべく早めにお戻りください」

 「えぇ」

 嶋宮(しまのみや)に着くと屋敷の奥からガヤガヤと賑やかな話し声や笑い声が聞こえた。猪手(いて)に代わり宮の侍女が部屋へと案内してくれた。

 部屋に入ると既に沢山の人が着席し宴を始めていた。コの字を描くように机が並べられその上には沢山の川魚や旬の野菜、果実、蘇などの豪華な食事が用意され床には酒の甕がいくつも置かれていた。

 「燈花(とうか)様、お待ちしておりました」

 侍女に案内され席につくと、すぐに見知らぬ大臣や官吏の男達が作ったような笑顔を振りまきこぞって祝いの言葉を上げに来た。これには私も驚き動揺したが、山代王の朝廷での地位の高さと権力の強さが彼らをそうさせたのだろう。なんとなく居心地が悪かった。

 祝いの挨拶の人々が引きしばらくすると、猪手(いて)が隣にやってきた。彼は再びお辞儀をすると私の手に小さな器を持たせ酒をつぎはじめた。器からほのかに梅の香りがした。

 懐かしい香りだ…前にも一度この梅の香りをかいだ事がある。その時の事を思い出していた。二回目のタイムスリップの前になるから、年月でいったら十四年前だ。

 突然の土砂降りの雨で身動きが取れず、橘宮(たちばなのみや)の使用人達や六鯨(むげ)小彩(こさ)と共に一晩この宮で過ごしたのだ。とても寒い夜で、小彩(こさ)と交代しながら薪を焚きこの梅酒を飲み藁にくるまって寝た。

 確かあの時まだ林臣(りんしん)様は十七、八の少年だった…私の瑪瑙(めのう)の髪留めを(かんざし)に直し私に返してくれたんだった…

 「燈花(とうか)様、改めてお祝いを申し上げます」

 猪手(いて)はそういうと両手でとっくりの底を持ちぐいっと中の酒を飲み干した。

 「ありがとう、でも今晩だけはいつものあなたでいてちょうだい」

 「えっ?で、ですが…」

 猪手(いて)はバツが悪そうに頭をかいた。私は注がれた酒を一気に飲み干したあと、もう一度そうして欲しいと彼に頼んだ。

 「では、燈花(とうか)様の仰せの通りに…」

 猪手(いて)はぎこちなく答えると、側に置いてあった(かめ)から酒をとっくりに注ぎなおし、いつもの口調で話し始めた。

 「それにしても、燈花(とうか)様が山代王様の側室になられるとお聞きした時には、本当にびっくり仰天で飛び上がりました」

 「そうね、誰にも話していなかったし知っていたのは小彩(こさ)と医官の玖麻(くま)様だけだったのよ…」

 「さようでございましたか…確か昔も一度、山代王様との婚約の話があったと伺いましたが…」

 猪手(いて)は注いだばかりの酒をまたぐびぐびと飲んだ。

 「ええ…でもあの時は私に事情があり叶わなかったのよ…山代王様からまた機会をいただけて光栄だわ」

 「燈花(とうか)様のお人柄がそうさせたのでしょう。山代王様の深いご寵愛を得た燈花(とうか)様なら、生涯安泰でございましょう。実におめでたいことでございます」

 猪手(いて)はそう言うと赤くなりはじめた顔で微笑み、残りの酒を飲み干した。

 「ありがとう」

 「しかし、燈花(とうか)様と再び馬を走らせ共に弓を射ることがないと思うと、寂しく思います…せっかく仲良くなれたと思っていたのに…あっ、祝いの席に滅相もないことを申し上げました。どうぞお忘れください」

 猪手(いて)が少しうなだれながら謝った。

 「私もきっと寂しくなるわ…。でもまたどこかで会えるわよ」

 私が言うと、猪手(いて)は大きくうなずきそのまま机の上に顔を伏せた。私はこの時、林臣(りんしん)の姿が部屋のどこにもないことに気が付いた。最後くらいはしっかりお礼をしないと…

 「所で林臣(りんしん)様の姿を見かけないけれど…」

 猪手(いて)はむくっと起き上がると部屋の中を一度見渡し、とろんとした目で戸口を見つめ言った。

 「あれっ、さっきまでいらしたのに…どこに行かれたのかな…厠かな…」

 「そう…明日は早くから準備があるからそろそろお暇しようと思って、最後に林臣(りんしん)様にご挨拶をしてから宮にもどるわ」

 「さ、さようでございますか…では宮までお送りしますので…またお、お声かけ…くさい…」

 猪手(いて)のろれつは回っておらず、体は左右にゆらゆらと揺れ今にも床にひっくり返りそうだ。そんな彼を見て私は一人で帰ることになりそうだと半ばあきらめた。でも酔いを醒ますのに夜風に当たりながら歩くには嶋宮(しまのみや)橘宮(たちばなのみや)の距離は最適だ。

 「ありがとう、そうさせてもらうわ」

 と猪手(いて)に告げ、林臣(りんしん)を探し始めた。やはり部屋のどこにも姿はない。念のため外も探してみようと思い部屋を出た。辺りはすでに暗く初夏の少し湿った空気と土の匂いが体を包んだ。水汲み場にも、(かわや)にも人の気配はなかった。屋敷から少し離れた所まで歩き、桃林の手前で足を止めた。
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