もう一度、君に恋する方法

 地獄のような時間は、急に過ぎ去った。
 遠くの方から、二人の好きなテレビ番組の音が流れ始める。その音に流されるように、俊介の泣き声が鎮まっていく。
 ふうっと重い息が体から吐き出された。ぼさぼさになった髪をかき上げて、頭をかきむしった。
 息をするのが精いっぱいなほど、呼吸が乱れていた。
 そこにスマホのデジタル音がけたたましく鳴って、心臓が飛び出そうになった。液晶画面に映る名前を見たとたん、顔の中心に皺が寄って、顔のあらゆる血管が浮き出た。
 電話に出ると、鬱陶しいほどのん気な声が聞こえてきた。

「もしもし。ごめん、クレジットカード、俺が持ってるよ。出張だったし、ホテルとか移動代、クレジットで払った方がポイント貯まると思って。えっと……カレンダーに書いてあったでしょ?」

 冷蔵庫に貼られたカレンダーを思い浮かべたけど、書いてあった記憶がない。本当に書いてあっただろうか。

「大丈夫だった?」

 その声に、私のボルテージが一気に上がった。

「大丈夫なわけないでしょ。カードなかったから、ポイント貯まらなかったじゃん。今日はポイント五倍デーだったのに。60ポイントも損したじゃん。レジ袋も買って、実質65円も損したんだから」
「ああ、それはごめん。俺のお小遣いから引いといてくれていいから」
「そういう問題じゃない」
「ほんとごめん」
「私がどれだけ心配したか、どれだけ焦ったか。どれだけ恥ずかしい思いをしたか。惨めな思いをしたかわかってん……」
「あ、ごめん、ちょっと戻らないと。またあとで連絡するよ」

 電話が切れる音と同時に、ぷつんと、頭の方で何かが切れる音がした。

「何なのよ……」

 力なく声が漏れた。
 すーっと頬を涙が伝っていく。

「もうっ、なんなのよっ」

 その声と共に、床にスマホを投げつけた。スマホの画面にはひびが入った。築半年の、まだ真新しい床に小さな穴が開いた。だけどもうそんなこと気にしなかった。

 この家を出る。

 静かにそう決意した。

 ふらふらとした足取りで、クローゼットの奥にスーツケースを取りに行った。

 クローゼットの奥にも段ボールがうずたかく積まれていて、それらに取り囲まれるようにして、さらに奥まったところで、スーツケースはポツンとたたずんでいた。
 段ボールの間を縫って、何とかスーツケースの場所までたどり着いた。
 よいしょっとスーツケースを持ち上げたけど、積んだ段ボールの高さを超えきれずキャスターがぶつかった。その瞬間、手前の段ボールがいくつかどたどたっと倒れた。それと同時に、ガシャンという派手な音も聞こえた。
 予想していなかった音に、体がびくりと跳ねた。音の先に視線を走らせると、そこには蓋と箱が真っ二つに分かれたスチール製の箱が落ちていた。その周りに中身が散らばっている。そのせいで、スーツケースを出せるようなスペースがなくなった。
 私は持ち上げたスーツケースをいったん元に戻して、散らばったもののそばに腰を落とした。

「はあ」とため息をつきながら、箱とその蓋を拾い上げてはっとなった。

__これは……。

 有名テーマパークのお土産の缶だった。蓋にはキャラクターが浮き上がるようにプリントされている。中身は確か、小分けされた小さなせんべいだっただろうか。そしてこれがまさに今日優子と話していた、例の校外学習のお土産の缶だった。
 それを私は、思い出ボックスとして使っていた。ただの思い出じゃない。あの人と付き合っていた頃の思い出だ。
 大したものは入っていない。付き合っていた頃、あの人からもらった手紙。おそろいでつけていたキーホルダー。なんとなく心当たりがあるだけで、鮮明な記憶はもうない。手紙に関しては、どんな内容のものだったか、全く思い出せなかった。
読み返そうとも思わなかった。むしろ、なんでこんなものとってあるんだろう、なんて、手に取るものの一つ一つを忌々しげに見た。
 ざっとかき集めて、それをバサッと音を立てて箱の中に入れると、乱暴にふたを閉めた。それを近くの段ボールの上にテキトーに置いた。立ち上がって崩れた段ボールを直そうと足を踏み出した時だった。

「痛ったっ……」

 足の裏に、強烈な痛みが走った。顔をしかめたまま足をどけると、安全ピンの付いた小さなプラスチック製のプレートが落ちている。それを苦々しげに睨みつけて、取り上げようと指先を伸ばした時だった。 
 ダウンライトのほんのりとオレンジ色の光に照らされたそれを見て、私の胸がどきんと鳴った。
 そのプレートが発する、懐かしさと、切なさと、甘酸っぱさが、胸を襲ってくる。

__トク、トク、トク、トク……

 妙にうるさい鼓動は、懐かしいテンポを刻み始める。
 息を止めながら、拾い上げたそのプレートを、そっと裏返した。

 そのプレートは、高校生の時に使っていた名札だった。学年ごとに色が違っていて、私たちの学年はオレンジのプレートに白字で名前が彫られていた。だからこのプレートは、私の物ではない。

 水色のプレートに白字で掘られた名前は、「水野」だった。


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