もう一度、君に恋する方法
上履きは相変わらず散乱していて、先ほどよりも若干人数が増えたのか、武道場の扉は開け放たれ、その先の外にまで上履きが散乱し始めていた。
私はそっとため息をついてから、脱いだはずの場所に自分の上履きを探した。そして履きがてら、その周辺の上履きを並べ始めた。かかとのあたりに名前が確認できるもの同士をくっつけ、つま先のカラー別に端に寄せて並べた。並べながら少しずつ武道場の外に向かっていることが、その自然光でわかった。
無心で並べていると、手元がふっと陰った。上履きをつかもうとする手をぴたりと止めて、ゆっくりと顔を上げていった。その途中、学ランが目に入った。その胸元に光る、水色の名札を目の端でとらえた。
完全に顔が上がったとき、私の半開きになった口元から、思わず「は」と吐息に似た声が出た。
出会ったその優しそうな眼差しに、吸いこまれそうだった。その微笑みの中から、その雰囲気通りの優しい声が、私の耳に届けられた。
「こんにちは」
私は後ろにのけぞりながら、ぺこりとだけお辞儀をした。そんな私を、目の前の彼は穏やかな表情で見つめていた。
なんとも不思議な空気を醸し出す人だと思った。何もかも包みこんでしまいそうな、優しく、温かな微笑みに、私の胸がきゅっとつかまれる。イケメンというわけでもないのに、なぜだかその表情に魅かれる。
そんな私をよそに、彼は上履きを並べ始めた。「並べるだけでこんなにきれいになるんだね」なんて、少々大袈裟な感動をしながら。その瞳は、キラキラと輝いていた。
ほんとはすぐに立ち去りたかったけど、私の目の前には上履きを楽し気に並べている人が立ちはだかっているし、この人に後を任せて自分だけ帰るわけにはいかず、二人でせっせと最後まで上履きを並べ続けた。
終えた瞬間、彼は私を見て、ふっと満足げな笑みをよこした。その淀みのないまなざしと、数秒も目を合わせていられなかった。
「えっと、新入生? 部活見学かな?」
うつむいた私の表情を確認するように、彼は私の顔をのぞき込んで聞いた。
「あの、いえ、私はもう帰るんで……」
「え? 帰るの? 今から部活なのに?」
「友達についてきただけなんで。すみません、失礼します」
そう早口に言って立ち上がると、上履きが整頓されたおかげで完全に閉まった扉から出ようとした。だけど、腕をぐっと掴まれて、後ろに戻された。驚いて振り向くと、ひざまずいたままの彼が、まるで懇願するような目で私に言った。
「君、うちに来ない?」
「…………はい?」
先ほどまで柔らかくて優しげに見えた彼の表情が、その一言でみるみるうちに怪しげに見えてきた。
何言ってるんだ、この人は。
初対面の人に対して、「うちに来ない?」って。何考えてるんだ。どういうつもりなんだ。高校生って怖い。優子、高校生の男女関係はこんな怪しげな誘いから始まるそうだ。今すぐ逃げよう。優子を連れて去ったあの男然り、危険な香りしかしない。
優子にそんなことをここから叫ぶわけにもいかず、とりあえず自分の身を守ることに専念した。
ここは甘く見られてはいけない。隙を見せてはいけない。上級生だからって、下級生に、しかも入学したての一年生をたぶらかすようなこと言う人に、騙されてはいけない。
「あの、私……」
勇気をもって声を大にした。
「私、そんな軽い女じゃありませんから」
先ほどまでうるさいくらいに鳴り響いていた管楽器の音が、その一瞬だけ収まったような気がした。そのおかげで、私の声は吹き抜けになっている武道場のホールによく響いた。その声に、彼は少々面食らったようで、膝を立てた体制を少し崩した。だけどそのぎょっとした顔は、すぐに破顔された。
「あはは、そうだよね。そんなすぐには決められないよね」
そう言いながら、立ち上がった。だけど私の腕は掴まれたままだった。
「他にもいろんな部活見て、もし入りたい部活がなかったらうちに来てよ。君みたいな礼儀正しい子がいてくれたら、うちもきっともっといい部活になると思うから」
話を聞いて、少しずつ頭が整理されていくうちに、顔に熱が集まってくるのがわかった。尋ねる声が思わず小さくなった。
「えっ、あ、あの、うちって……」
「ああ、吹奏楽部?」
「……すい……」
彼は親指で扉の方を指した。
偶然開いた扉の向こうから、金管楽器の重厚な音が、私の体をぐわんぐわん揺らした。
とんでもない勘違いをした。それどころかあんなに大声で拒絶をした。どんだけ自意識過剰なんだ。自惚れにもほどがある。この人の前に立っていることが、顔を合わせることが恥ずかしすぎて、目頭まで熱くなってくる。もうこの場に立っているのは、無理だ。
「あ、あの、すみません、私帰ります」
そう言って掴まれた腕をほどいて帰ろうとした時、「待って」という声と共に、再び力強いものが、今度は私の手を掴んだ。その衝撃に、息を吸ったまま吐けなくなった。生身の手の感触に、指先が震えだす。薄い皮膚を通して伝わる、そのごつごつとした輪郭も、皮膚の滑らかさも、手の温度も、とにかく全部が、私の神経をさあっと巡っていく。遺伝子の隊列が、妙なざわつきを始める。
「俺も一緒に帰っていい?」
「えっ……、えええ?」
「今日は部活って気分じゃないから、俺も帰りたかったし」
そう言いながら、彼は私の胸元をまじまじと見た。
「えっと……柏木さん?」
苗字を呼ばれただけで、胸がどきんと跳ねた。
「……はい。あ、えっと……」
私も彼の学ランの胸元にさっと視線を走らせた。
水色の名札。三年生だ。
「水野です」
私が名札の名前を確認したのと同じくらいのタイミングで、彼は名乗った。
__水野、先輩。
それがあの人、水野浩介との出会いだった。