もう一度、君に恋する方法


__最悪だ。

 私の顔からはすっかり血の気が引き、まだ夏も終わっていないというのにすでに寒気がした。

 時刻は七時少し前だというのに、空はまだ明るかった。その中を、いつものように、同じ方角の人同士がかたまって帰路についた。本当は一人で帰りたかったけど、ここで先に帰るのもなんだかおかしいし、私もいつも通りやり過ごすつもりだった。
 先輩もいつも通り、私の隣を歩いた。車道側を、自転車をひいて。だけど先輩とは、何も話さなかった。何を話していいのかわからなかった。先輩が醸し出す空気も、どこか硬かった。先輩の方を見れないからその表情はよくわからないけど、その空気がいつもと違うのは確かだった。
 前方からも、気まずい視線をずっと感じていた。そんな空気にしてしまうなら、やっぱり一人で帰った方がよかっただろうか。先輩たちと過ごせる、最後の時間なのに。私個人のことに巻き込んで、非常に申し訳ない。

「じゃ、じゃあまた」とぎこちないあいさつで、いつもより早く、一斉に散りじりになっていったのは気のせいだろうか。残された私と先輩は、いつも通り二人きりで帰り道を歩いた。

 家にたどり着くと、私は先輩の方も向かずに、「お疲れ様でした」とだけ早口で言って、玄関に駆けた。
「うん、お疲れ」という声は、背中が受け止めた。
 その声に、胸がぎゅっとなった。

 この声が、もう隣で聞けなくなる。
 私が先輩の「特別」になることは、ない。
 あの声を、あの笑顔を、あの瞳を、あの匂いを、先輩の隣を、独り占めすることは、もうできないんだ。

 これが、最後。

 私は玄関に向かう足をぴたりと止めて、先輩の方に向き直った。

「あの、先輩」

 先輩は「ん?」と驚くこともなく、何でもない顔を私の方に向けた。
 先輩と視線が合ったのを確認して、私は言った。

「短い間でしたが、お世話になりました。受験、頑張ってください」

 笑顔で言えただろうか。
 最後の方はもう、声がかすれて言葉になっていなかった。
 涙があふれてきて、次から次へとぽろぽろとこぼれていく。
 思わず俯くと、肩まで伸びたサイドの髪がだらんと流れて、その泣き顔を隠してくれた。
 足元に、ぽとぽと涙が落ちるのが見えた。
 そのぼやけた視界に、すっと長い指が差し込まれた。その指先は、流れた私の髪をすくいあげて耳にかけた。
 それでも落ちてくる髪を、何度も何度もすくいあげる。その手が、私の頬を大事そうに包みながら、一緒に涙をぬぐっていく。
 視線を上げると、どこか嬉しそうな先輩と目が合った。柔らかなその表情に、不思議と心がほぐれていく。

「ありがとう」

 先輩の低い声が、温かくお腹に響いた。
 涙で濡れる私の頬を、先輩はいつまでもその温かな手のひらで拭った。
 だけど私は、いよいよ意を決して、その手から自ら離れた。

「もう、大丈夫です。すみません。最後まで、ご迷惑おかけして」

 所在なさげなその手が、愛おしい。
 もう一度触れたい、触れてほしい。

 私は、先輩のことが好きだ。好きでいたい。好きになってほしい。
 
 次々と芽生えてくる先輩への思いを、だけど私は、ぐっと押し込んだ。

「引き留めてすみません。では」

 そう言って本当に家に入ろうとした時、

「柏木さん」

 呼び止められて、もう一度振り返った。
 そのまま無理やり玄関に体を押し込めばよかったのに、先輩の声に、どうしても振り向きたくなった。

「最後に、いいかな?」

 先輩は、片手をそっと上げた。その意味を汲み取った私は、大きな手のひらから伸びる、すらりとして、どこか色っぽい指先に、その手の形に合わせて、自分の手を軽く重ねた。

__これが、最後。

 そっと手を重ねると、重なった部分から先輩の熱と皮膚の感触が伝ってくる。じわじわと熱くなる手に、また涙がこみ上げてくる。
 
 重ねた指先が、その滑らかな皮膚と圧力のせいで少しずれた。そうかと思ったら、先輩の指先が、私の指にそっと絡まった。  
 その瞬間、心臓がドキンドキンとうるさく鳴り始める。
 その中に、先輩の真剣な声が混ざった。

「おれ、頑張るから、受験」

 そう言うと、先輩の手がすっと離れていった。
 
 先輩は私から一歩離れると、いつもの笑顔で言った。

「おやすみ」

 反応できずにいると、先輩はくるりと背中を向けた。そして自転車にまたがって、すーっと走り出した。私はその背中を、ずっと見送った。先輩の背中を見送るのは初めてだった。
 その背中が見えなくなってからもずっと、しばらくそこにたたずんで、冷めない熱が冷めるのを、いつまでも待った。


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