もう一度、君に恋する方法
そんなバタバタとした一日から、夏休み後半の練習は始まった。夏休みの間は先輩に会う心配もないので気が楽だった。よもや河瀬先輩みたいにひょっこり現れたらどうしようとびくびくしていたけど、それもなかった。
引退した先輩は、河瀬先輩意外、誰一人、真夏の部活練習をのぞきに来なかった。
私は先輩を忘れることにした。そのために、練習に専念した。
練習中の集中力は誰も寄せ付けないほどだった。先輩のことが脳裏をよぎろうものなら、無心でメトロノームの音に向き合った。まるで煩悩を寄せ付けないように。
学校行事の忙しさも助けて、二学期はなんとか乗り切った。乗り切ったというのは、先輩と鉢合わせないという意味でだ。
ただ、体育祭のような他学年とも交流の場が多くなる場面では、目と意識のやりどころに苦労した。それでも私は、先輩と会わないように、どこか意識をしていた。
三学期になると、自由登校になった三年生の先輩たちはいよいよ学校にも姿を現さなくなった。
寂しさをまとった校舎に先輩たちが戻ってきたのは、桜がちらほらと咲き始めた卒業式の日だった。
この日は三年生以外の生徒は休みになる。とはいっても、先輩たちとの最後の別れを惜しむように、在校生は自由に登校してくる。
私も来ていた。吹奏楽部の仕事をするために。
私たち吹奏楽部は、入退場や卒業証書授与のBGMを生演奏することになっている。
ただ、全員が会場である体育館に入れるわけではない。演奏スペースも限られているし、そもそも卒業式のようなしっとりとした席で、吹奏楽部がフルメンバーで演奏するのは少々興ざめだ。
あくまでも厳かに、しめやかに。
なので、卒業式の手伝いと言っても、私は体育館への楽器の搬入作業に携わるだけだった。
搬入作業が終わると、式が終わるまで待機だ。
その間みんなとファミレスで時間をつぶすことにしている。
楽器庫の戸締りだけして、私もあとから合流するつもりだった。
武道場の扉を開けると、中はしんとしていて、奥から流れてくる冷気が私を出迎えてくれた。床の冷たさが、靴下を履いていても直に伝わってきた。
つま先でちょこちょこ走りながら楽器庫の前にやってきた。そして鍵穴に鍵をさしこもうとして、やめた。その代わり、ゆっくりと扉を開けて中に入った。
楽器庫の中は通路よりも温かく感じた。楽器庫独特の埃っぽい匂いは入部当初は苦手だったけど、今はその匂いにもすっかり慣れて、この空気に触れると安心感すら覚える。
楽器や楽譜が並ぶ棚に囲まれたパイプ椅子に、私は冷えた足を隠すように正座で座った。そして、すぐそこの机に突っ伏した。
__眠い。
今日の集合は、生徒会や式を取りまとめる先生たちと同じ時間だった。いつもの登校時間よりずっと早い。だけど睡眠不足なのは、それだけが原因ではない。昨日は、眠れなかった。
今日が先輩と会える、本当に最後の日だ。
今日が終われば、私と先輩の接点もいよいよなくなる。
無駄に意識することもなくなるだろう。
新しい春が、やって来る。
先輩が卒業すれば、入れ替わりに新入生がやってくる。
あの頃の、私のように。
先輩と出会って、もうすぐ一年だ。
あっという間の一年だったのに、先輩とここで茶色のこびんを演奏した思い出だけが、ずいぶん遠い昔のことように感じた。
先輩の柔らかなクラリネットの音が、ふわりと私の記憶をくすぐる。それだけで、胸のあたりが温かくなって、口元が「ふふっ」と無意識に緩んだ。
先輩の声、先輩の笑顔、先輩の匂い。重ねられた手のひら。そこから伝わる熱と皮膚の感触。
その感触を思い出しながら、私はグーパーする自分の手を見つめた。
__「おれ、頑張るから、受験」
受験、どうなったんだろう。上手くいったのかな。
連絡も取り合ってないから、結果もわからない。そもそも受験校すら知らない。進路も。
だけどそんなことを知ったところでどうしようもない。
先輩の未来に、私は存在しないのだから。
「はあ」と大きなため息をついて、私は机に顔を埋めた。