もう一度、君に恋する方法
目が覚めた時、背中にほんのりとした温かさを感じた。
目を開けると、机にもたれかかる人を認めた。
寝ぼけ眼で見やると、そこにいたのは、水野先輩だった。
私が目覚めたことに気づかず、鼻歌を歌っている。
先輩は、こんな寒いのにカッターシャツ姿だった。その姿が妙に大人びて見えた。しばらく会っていなかったからだろうか。その姿にぼんやりとしたまま見とれていると、不意に目が合った。先輩はなんでもない顔をして微笑む。
「おはよう」
私はばっと跳ね起きた。そして、ぺこりとぎこちなくお辞儀だけした。その拍子に、背中に掛けられたものがはらりと落ちた。それを先輩はそっと拾って、私の肩にかけなおした。
「こんなところで寝てたら、風邪ひくよ」
先輩がかけてくれたのは、先輩の学ランだった。厚手のその生地から、先輩の匂いがいつもより濃く立ち込めて、思わず身が縮こまった。
「サボり?」
「え?」
「卒業式の撤収作業。集合かかってるよ」
「あっ」と慌てながら、私はスマホを見た。何件かのメッセージと着信があった。
一体どれだけ寝てたのだろう。寝ている間に、リハーサルも式本番も終わっているではないか。自分に呆れてしまう。
「すみません、私、戻ります」
椅子をガタガタさせながら扉に向かおうとした。
その時、「待って」という声と共に、手が引かれた。
足元に、パサリと先輩の学ランが落ちた。
「ここにいようよ、二人で」
「……え?」
先輩のまっすぐな目と出会った。熱っぽいその目は、私をとらえて離してくれない。だけどふわりと揺れてそらされると、先輩はバツの悪そうな表情で言った。
「吹奏楽部ってさ、人数多いよね?」
「……は、はい?」
唐突な質問に、私も疑問とも肯定とも判別しかねる返事を返す。
「だから、行かなくてもいいんじゃない?」
「……え?」
「人はいっぱいいるんだし、足りなかったら三年にも手伝わせればいいんだし。柏木さんがいなくても、何とかなるよ」
「そんなっ……卒業生に手伝わせるんですか?」
私に言われた先輩は、唇を突き出して、まるで駄々をこねる子どもそのものだった。
私は呆れて言った。
「部長がそんなこと言ってもいいんですか?」
「元部長だから、いいんだよ、別に。俺は、柏木さんと一緒に、ここにいたいし」
私の手をつかんだその手に、切なげな力がきゅっと込められた。それは、甘い誘惑にも似ていた。
その懇願するような熱い瞳を振り切るように目をそらして、私は自嘲気味に聞いた。
「あの……私なんかと一緒にいて、どうするんですか?」
「え?」
先輩は困ったように目を泳がせて、考える素振りを見せた。
「どうするって、特に考えてないけど」
「じゃあ、どうしてここにいるですか? しかも二人で。おかしいじゃないですか」
「別におかしくないでしょ。俺は柏木さんと一緒にいたいなって思ってるんだから」
悪気のない顔をしてしれっと言い切られたその言葉に、一瞬胸のテンポが揺らぐのを何とか持ちこたえると、覚悟を決める思いで、つかまれたその手を振り払った。
「だから、そういうのがダメなんですよ。そんなこと言うから、みんな勘違いしちゃうんじゃないですか。それで人の気持ち盛り上げといて、最後にはこっぴどくふるって……。それはないんじゃないですか? いくら神とも仏とも言われている先輩でも、許されませんよ。そうやって思わせぶりな態度とって、女子を弄んで」
勢いよく飛び出した言葉は、次第にしぼんでいった。
高ぶった感情は、言葉の代わりに、涙となって溢れてきた。
そんな私に、慌てふためく声が、情けなく問いかける。
「え? なになに? 誰の話? 河瀬のこと?」
「先輩ですよ。全部先輩のことですよ。今先輩の話しかしてませんよ。なに他人に罪をなすりつけてるんですか」
「え? だって俺そんな女の子を弄ぶなんてひどいことしてないし。それに柏木さんをふったってのは何? それほんとに俺?」
「他に誰がいるんですか」
「だって俺、柏木さんふった覚えないし」
「先輩のジュースだけアルコール入りだったんですか? 記憶にございませんではすみませんよ」
先輩は信じられないという風に口元を手で押さえ、困惑気味に目を泳がせた。
そんな姿に、もう呆れしかでてこない。
「夏の大会が終わった後の打ち上げで、先輩は私を完膚なきまでにフリました。しかもみんなの前で。付き合うのは無理だって。付き合う気はないって」
しばらく考える素振りを見せた先輩は、急に顔をぱあっと明るくして、「ああ、あれか」と両手を打った。
「そうかそうか、それで……。ていうか、あれってふったってとられるの? 厳しいなあ、世の中は」
先輩の納得がまったく理解できない私を置いてきぼりにして、先輩は一人けらけらと笑っている。
「なるほど、だから妙に風当たりが強く感じたのか。みんなの俺を見る目が冷たかったから、部室入りずらかったもんなあ。空気が出禁扱いで」
先輩は何がツボに入ったのかまだ「くくく」と苦しそうに笑っている。
ようやく少し笑いが収まったところで、だけど笑い声と一緒に、先輩は私に言った。
「ありえないよ。俺が柏木さんをふるなんて。だって俺、柏木さんのこと好きだし」
先輩は笑いの勢いに乗ってなんともナチュラルに言ってのけた。
一方の私は、「へ?」と間の抜けた声で困惑するのみだ。
「だったら、あれは何だったんですか? 付き合えないとか、無理だとか」
「あれはさ、けじめだよ」
「けじめ?」
「俺、今までずっと部活に力入れてて、音楽のことばっかり考えてたからさ、周りは受験勉強始めたり、大学決めたりしてたけど、あの時の俺はまだ進路も決めてなくて、受験生って実感もなくて。将来のことなんて、全然考えてなかったんだよね。まあとりあえず大学行けばいいか、なんて、軽い気持ちで考えてて、その先のことは、またその時考えればいいかななんて。楽観的に考えててさ」
「あはは」なんてのん気に笑う先輩に、「ポジティブの極ですね」と私は呆れて返す。
だけど先輩はその笑顔を少し隠して話を続けた。
「そんな俺がさ、柏木さんを大切にたいとか、守っていきたいとか言っても、全然説得力も頼り甲斐もないでしょ? 不安しかないじゃん? だからさ、一人の男として大切な人ができたんなら、何となくや、とりあえずで進路を決めちゃいけないって思った。ちゃんと将来のこと考えようって。受験頑張ろうって。ちゃんと結果出してから、告白しようって決めて。その方が、柏木さんも安心でしょ?」
先輩は遠くを見るような眼差しでそう言った。まるで、ずっと先の未来を見ているような、そんな澄んだ瞳だった。
「まあその間に、柏木さんに好きな人ができたり、彼氏なんてできたらどうしようなんて焦ったりもしたけど。何事もなくてよかった」
胸をなでおろす先輩とは裏腹に、私はいつまでも呆然としていた。
固まった私の様子をうかがうように、先輩は「柏木さん?」と声をかけた。私は言葉を震わせながら、その呼びかけに答えた。
「なんだ……私、フラれてなかったんですね?」
ほっとした気持ちは、体中の力と共に吐き出された。
足の力まで持っていかれて思わずよろけると、先輩がその体を支える。私はその腕の中で、なぜか笑えて来た。
「ああ……バカみたい。一人で悩んで、思い詰めて、勘違いして。無意味に先輩から逃げて、避けて。ほんとはもっと、先輩と一緒にいたかったのに。文化祭でも体育祭でも、いっぱい話したかったのに。学校でもっと、先輩と思い出作りたかったのに」
目元が熱い。
こみ上げるものが鼻をツンと刺す。
それが涙に変わるのに、時間はかからなかった。
「ほんと私、バカだ」
先輩はずっと、先輩だったのに。
先輩は、私を好きでいてくれたのに。
私を、「特別」だと思ってくれていたのに。
後悔や惨めさに押しつぶされるように、顔が下を向く。
そんな私の頭上に、まばゆい光のような声が降った。
「そんなの、塗り替えたらいいじゃん」
「……え?」
「思い出は、これから塗り重ねたらいいんじゃない? 一緒に」
__一緒に。
先輩は床に落ちた学ランを拾い上げ、しゅっと勢いよく袖に腕を通した。そして襟元を正し、いたってまじめな顔で言った。
「俺は、柏木さんのことが好きです」
私の胸の中で倒れていた寂れた小瓶に、さっと鮮やかな色が走る。
「柏木さんのこと、ずっと大切にする」
スターダストのようなきらめきが散りばめられる。
「俺の、彼女に……」
私の想いに、先輩の想いが重なる。
その奇跡のような瞬間を、目を見開いて待った。
それなのに、そんな時に限って、私の目がとんでもない光景をとらえた。
瞳孔までカッと見開いた私は、その勢いのまま先輩の胸ぐらをガシッと掴んで先輩に詰め寄った。
「せ、先輩っ。ボタンはどうしたんですか?」
「ボタン?」
「学ランのボタンですよ。一個もないじゃないですか」
「ああ。欲しいっていう子が何人かいたから、その子たちにあげた」
「全部ですか? 袖のボタンも?」
「余った分は、パートの子にあげたよ。余ってても仕方ないでしょ?」
「自分で配り歩くとか、どういう神経してるんですか?」
「こんなの欲しいって言う人の神経の方が、俺にはわからないけど」
「今のセリフ、ほとんどの女子を敵に回しますよ」
「柏木さんも、欲しかった?」
「そりゃあ、欲しいですよ。だって好きな人のボタンって……それより、第二ボタンは誰に渡したんですか?」
「えっと……」
考え込む仕草のまま固まる先輩のそばで、私は絶望に押しつぶされた。
__憧れの、第二ボタン……。
そんな私をよそに、先輩は学ランやズボンのポケットを探り始めた。
「代わりにあげられるものなんて、何も持ってないなあ」なんてのんきに言う先輩に、私は深いため息を吐く。
もらえれば何でもいいというわけではない。
「あ、じゃあ、これ……」
何かをひらめいたような明るい声で、先輩が胸元を探り始める。その手元で、卒業生のコサージュが揺れた。
一年生全員で作ったコサージュだ。そんな同級生の誰が作ったとも知れないコサージュなんていらない。
私の抗議の声は聞き届けられないまま、先輩は私のセーラー服の襟元に安全ピンを通した。
先輩の指先が胸元をかすめていくと、体が無意識にピクリと反応した。
先輩の手がどけられて、一応胸元を確認した。
だけどそこには、コサージュなんてなかった。
そこにあったのは、「水野」と書かれた、水色の名札だった。
「おお、いいじゃん」
先輩は満足そうに言った。
私が胸元の名札に視線を落としたまま戸惑っていると、頭上に、ぽつりと柔らかな声が降り注いだ。
「水野、早矢香」
「……え?」
「響きもいい」
一人納得したように腕を組んで、先輩はうんうんとうなずいた。そして、私にその煌めく瞳を向けて言った。
「ボタンの代わりにそれあげるからさ、柏木さん、俺のお嫁さんにならない?」
当然、言葉を失う。
__お、お嫁さん?
「俺は悪くないと思うんだけど。柏木さんは、どう?」
先輩は私の反応をうかがうように、視線だけをこちらに向けた。
ちょっと照れたような、いたずらっ子のような笑みを含みながら。
私のぽかんと空いた口が、きゅっと締められ、そのままふっと緩んだ。
「変ですよ」
「そう?」
「変じゃないですか。この名札付けてるのに、『柏木さん』なんて」
「ああ、そうか。えっと、じゃあ……水野、さん?」
「それもちょっと違いますけど」
別に正しい答えなんて求めてない。
ただの照れ隠し。ただの戯れ。
だから、こんな思い付きの言葉、そのまま流してくれてもよかったのに、先輩はしつこく絡んできた。
「そう……だよね。俺も水野だし、なんか変な感じ」
「いや、そうではなく……」
「早矢香」
呼ばれとたん心臓が飛び出そうになった。
それなのに、ばっと見た先輩は、何でもない顔をしていた。まるで、ずっと前からそう呼んでいたみたいに。
呆然として抜け殻のようになった私の体が、ぐっと引き寄せられて力強い腕に包まれる。すると、いつも空気の中で感じている先輩の匂いが、鼻先にぐっと濃く迫って来る。
「早矢香、大好きだ」
吐息交じりの声が、耳の輪郭をなぞっていく。それがくすぐったくて、私は先輩の胸の中に顔をさらに埋めた。
「私も……」
一瞬、声が詰まった。
震える口元に、ぐっと力をこめて言った。
「私も、大好きです。……浩介、先輩のことが」
これが幸せって言うんだ。それを実感した瞬間だった。
私の世界が、先輩で満たされていく。それが、たまらなく嬉しい。
先輩がそばにいてくれたら、それでいい。
それだけで幸せ。
もう何もいらない。
この時間が、続くのなら……。