もう一度、君に恋する方法
こうして私は二年後、猛勉強の末なんとか大学に合格し、晴れて先輩と同じ大学に入学を果たした。一人暮らしも始まった。履修登録も無事終え、私は吹奏楽部に入部した。オリエンテーションで新入生の前で堂々と話す先輩と目が合うと、先輩は私に向かってさりげなく微笑んだ。その笑顔がどこか嬉しそうに見えたのは、私の自意識過剰だったろうか。誰も気づかない、私たちだけの会話が交わせたような気がして、嬉しくなる。何より、水野先輩が、あの頃と変わらず「水野部長」であることに、私はほっとしたのかもしれない。先輩が、あの頃と何も変わっていないような気がして。すべて、自分の勘違いだったのだと。
入部が完了したその日、早速新歓コンパが行われた。
店内では店員が忙しく飲み物や食べ物を運び、ガサガサとした話し声が、あちこちのテーブルや座敷から聞こえてきた。
ここは私が知っている居酒屋ではなかった。先生もいない。その監視もない。いるのは、知らない、本物の大人ばかり。
私たちのテーブルにも、飲み物や食べ物が運ばれてくる。そこには当然のようにアルコールっぽいものも運ばれてくる。高校生の時の打ち上げでドカンと並んだ唐揚げやポテトはちょこんとあるだけで、枝豆やキャベツにドレッシングだけかけたものなどが次々と運ばれてくる。それを先輩たちは、アルコールと共においしそうに食べた。
ここに座る一年生の誰もが体を固めて座っていた。同級生の中でも、大人びて粋がっている人でさえ、そう見えた。この大人の空間の中で、私たち新入生はぽつんと取り残されたようだった。
しばらくすると、新入生の自己紹介が一人ずつ行われた。あんなにガヤガヤしていたのに、この時間になると急にしんとなった。だけど一人紹介が終わるごとに、歓迎とも冷やかしともとれる叫び声が上がった。
その後は、パートごとに固まって団らんしていたけど、いつしかパートが入り乱れて、いろんな先輩が話しかけてきた。
はじめはよかった。和やかな空気で、歓迎されている感じがした。だけどお酒が入ってきたからか、だんだん距離感も曖昧になってくる。その空気がどうも苦手だった。
目の前でどんどんお酒を飲み、酔っぱらって変貌していく先輩たちを、私たちは戸惑いの目で見た。私たちにお酒をすすめる先輩なんていなかったけど、それでも飲み会が始まった時の空気とは明らかに絡み方が違った。それは少し、恐怖に似たものだった。
私はコップに口をつけながら、さりげなく水野先輩の姿を探した。「先輩……」と心の中で、何度も名前を呼んだ。時々絡んでくる先輩たちの質問をテキトーに交わしながら、せっせと喉にオレンジジュースを流し込んだ。
ようやく解放されてため息にも似た吐息がふーっと口から出た時だった。
「早矢香」
名前を呼ばれただけなのに、体がびくりと大袈裟に跳ねた。振り返ると、水野先輩がいた。その姿を見ただけで、声を聞いただけで、ほっとした。
先輩は私の隣に座った。その手には、茶色の透き通った液体が注がれたコップが握られていた。
__お酒?
胸のあたりがざわついた。
先輩も他の先輩たちと同じように、この夜の居酒屋という雰囲気や、どこか乱れたコンパの空気に馴染んでいるように見えた。また胸騒ぎが始まる。遠距離恋愛をしていた時に感じた焦りや不安がまた押し寄せてくる。こんなに近くにいるのに、その気持ちがぬぐえない。
「大丈夫? こういうの」
先輩の手元に釘付けになった私の顔をのぞき込むように、先輩は聞いた。
「大丈夫ですよ」
居住まいを正してはっきりと言った。強がりは、隠せていただろうか。
「こんなの全然大丈夫」、そう自分に言い聞かせながら、笑顔を作った。
「高校の時とは、だいぶ雰囲気が違いますけど。大学生って、こういう感じなんだなって。勉強になったし、私も早く慣れないとなって」
「別に慣れる必要ないよ。楽しいならそれでいいけど、無理に合わせることないんだから。嫌なことされたり、困ったらすぐ言って」
その言葉に、目元が情けなく潤んだ。
ほっとした。すがれる存在に、心が緩む。それが水野先輩だったからなおさら。緊張と恐怖が、ふっと連れ去られていく。
それなのに、穏やかさを取り戻しつつあった私の心臓が、後ろからかけられた声でパチンと弾けた。
「あーっ、浩介がもう後輩に手出してる」
私たちの間に、男女の先輩がもつれこむように割り込んできた。
男の先輩は、どこか河瀬先輩を彷彿とさせる、見た目も口調も軽そうな人だ。そして女の先輩は、衣服が少々乱れて肩がむき出しになっていた。髪を緩く巻いて、なんだか不思議ないい匂いがする。メイクもばっちりだ。水野先輩の背中に抱き着くようにのしかかる彼女に、私は目を見張った。その豊満な胸が、先輩の背中に食い込んでいる。唖然とするだけで、声は出なかった。ただ、目だけそらした。
「高校の後輩だよ」
先輩は彼女の腕をするりとすり抜けながら、そう説明した。
「ていうか、彼女」
さりげなく付け足されたその言葉に、思わず大袈裟なほど目を大きくして先輩を見た。困ったような表情の先輩の口元は、微かに緩んでいた。
「え? 浩介彼女いたの? なんで黙ってたんだよ」
「だって聞かれてないし」
「お前も俺らと同じだと思ったのにぃ」
「何だよそれ」
先輩たちが談笑するそばで、私はまた居場所を失くした気分になった。先輩たちが吐き出すアルコールの匂いが、私をこの場の空気からはじき出そうとする。
顔を伏せたくなるような下世話な話題。つかめないノリ。話を振られても、なんと返していいのか、どう答えるのが正解なのか、わからない。
この空気を壊してはいけない。この空気に馴染まなければいけない。これが、大学生だから。ノリ良く返さなきゃ。空気を壊さないように。先輩の彼女として。先輩に、恥ずかしい思いをさせないように……
「早矢香?」
名前を呼ばれて、はっとなった。
「大丈夫? 気分悪い?」
「あ……」
そのまま、言葉が出なくなった。私にできることは、ぎこちなく片方の唇の端を上げて、「ははっ」と弱々しく笑うぐらいだった。
「私、ちょっと、お手洗いに……」
そう言いながら後ずさりして立ち上がろうとした。すると、
「俺、ついてくよ」
と先輩が私より先に立ち上がった。そして先輩は私の腕をとって、ひょいと立たせた。そうかと思ったら、今度は先輩の反対側の腕が、ものすごい力でグイと引っ張られた。
「えー、浩介行っちゃうのぉ? つまんなーい」
ゴールドのアクセサリーで彩られた華奢な腕が、先輩の腕に絡みついている。先輩の腕が、深い胸の谷間に吸い込まれていくところだった。
「トイレぐらいひとりで行けるよねえ?」
甘ったるい声とは相反する鋭い目が私に飛んでくる。私はその目にひるんで、おずおずと「はい」と小さく答えた。
「ほらぁ、大丈夫だって」
そのほっそりとした腕は、先輩の腕を頑として離そうとしない。それに先輩は、やんわりと抵抗する。
「でも、行く途中で酔ってるお客さんにからまれるかもしれないし」
「じゃあ、私がトイレ行くときも付いてきてくれる?」
「佐藤さんは大丈夫でしょ。どんな酔っ払いも、上手いことかわせそうだし」
「えー、浩介ってこんな冷たかった? いつももっと優しくしてくれるのにぃ」
先輩が困っているのは、明らかだった。だから私は、抑え込んでいた声をぐっと出した。
「先輩、私、ひとりで行けますので」
そう早口で言って背中を向けた時だった。
「なになに? 付き合ってんのにまだ「先輩」って呼んでんの? かわいい」
「かわいい」がほめ言葉なのか、はたまたバカにされているのか。それがわからないほど私はバカではない。この場でのそれは、後者だ。
「ほんと新入生はかわいいよねえ。最近までJKだもんね。そりゃ浩介も心配になるよね? 保護者目線って言うの? お父さんみたい」
佐藤先輩のバカ笑いが、この飲み会会場を包んでいく。そのバカ笑いに、私まで飲み込まれそうだった。
「ほら、早矢香、行こ?」
そんな渦の中から先輩が私を救い出そうとする。だけど私は、その差し伸べられた手を、掴むことができなかった。
「大丈夫ですよ。トイレぐらい、ひとりで行けますから」
そんな私の強がりに、佐藤先輩が大船を揺らすように乗っかる。
「ほらぁ、大丈夫って言ってるじゃん。浩介はもっと飲もうよぉ。何飲んでんの?」
そう言いながら佐藤先輩は、遠慮も配慮もなく、先輩の手元のグラスを奪い取るようにして、そのグラスに口をつけた。
その瞬間、自分の顔がさっと青ざめ、体中から血の気が一気に流れ落ちていく感覚を味わった。
先輩のグラスには、べっとりとリップの色が付着した。まるで、殺人事件の現場に残されたグラスのように。
「何これ? ウーロン茶? どうした、どうした? もっと飲もうよぉ、浩介らしくないぞぉ」
私の胸を、佐藤先輩のキンキン声が貫く。
「佐藤さん、飲みすぎだって」
先輩のその穏やかな声さえ、今私が受けた衝撃を癒してはくれない。それどころか、佐藤先輩の粘着テープみたいな声が、私にとどめを刺す。
「ねえ浩介ぇ、今日もおうち行っていーい?」
その言葉に、私の顔もさすがに歪んだ。思わずその顔を先輩の方に向けると、複雑そうに顔を歪める先輩と目が合った。
「早矢香、違うんだ」
切実な目と声で訴えようとする先輩から、私は無意識に距離をとった。
何だ、これは。まるで浮気発覚現場ではないか。
ここは、最悪の現場だ。
私はその現場を、落ち着いた足取りで出た。なるべく、落ち着いた足取りで。だけどその足は、今にもガクンと崩れ落ちそうだった。