もう一度、君に恋する方法

 一番奥のトイレに駆け込んで、ガチャリと思い切り鍵を閉めた。ふさがった扉を、体で力の限り押し返した。
 何も入ってこないように。何も聞こえないように。
 そのままずるずると、足から崩れ落ちた。そして膝小僧に、顔を埋めた。
 ざわめきが遠くに聞こえる。だけど私の耳には、佐藤先輩の耳障りな声ばかりがいつまでも張り付いている。その声で発せられる名前に、嫌悪感を覚えた。

__浩介。

 胸がずきんと痛んだ。歯を食いしばると同時に、のど元にぐっと力がかかった。

 先輩を名前で呼ぶ人なんて、男の先輩ぐらいしかいなかった。みんな「水野君」とか「水野先輩」だったのに。名前を呼ぶ女子なんて、いなかったのに。
 私だって「浩介」と名前を呼んだのは告白された時だけだ。恥ずかしすぎて、思わず名前の後に「先輩」をつけてしまったけど。
 いや、それは百歩譲ってまだいい。今一番頭の中を支配しているのは、

__「ねえ浩介ぇ、今日もおうち行っていーい?」

 その言葉だ。
 「今日も」。「も」ってなんだ? 「も」って。
 それは、以前も先輩の家に行ったということだ。先輩の家に。私だって、行ったことないのに。入れてもらったことないのに。泊まったことないのに。
 もちろん、高校生の時にこっちに遊びに来たことは何回かある。先輩とこちらの観光地を巡ったし、大学構内を案内してもらったりもした。だけど、先輩は必ず、その日のうちに私を新幹線の駅のホームまで送り届けた。決して下宿先に連れていったり、泊めたりすることはなかった。
 私は一度も、先輩の下宿先に行ったことはない。知っているのは、テレビ電話に映る、先輩の部屋の雰囲気だけ。
 その部屋に、私以外の人が入った。私以外の、女の人が。佐藤先輩が。

「はー」と大きなため息が出た。肺の中身がすっからかんになると同時に、体の力も一気に抜けていった。

 もうこのまま帰っちゃおうかな。勝手に帰ったら、感じ悪いだろうか。色々言われるだろうか。ああ、荷物、置きっぱなしだ。どっちみちもう一度あの場所に戻らないと。
 
 いつまでもこうしているわけにもいかず、私はようやく重い腰を浮かせた。
 ぼんやりと意味もなく、石鹸でごしごしと手を洗った。そして時間をかけて、手からも洗面台からも泡が消えるまで水を流した。

 お手洗いから出てすぐ、「早矢香」と声をかけられた。

「……先輩」

 壁に背中を預けて立っていた先輩は、私の姿を認めると、慌てたように体を壁から離して近づいてきた。

「なかなか帰ってこないから、心配で」

 その心配そうな表情に、私はどんな顔で返していいのかわからないまま顔を背けた。それなのに、先輩は無頓着に私の顔をのぞき込む。

「なんか顔色悪いけど、体調悪い?」
「そんなんじゃないです。ここ照明暗いから、そう見えるだけじゃないですか?」

 私は目の前に立ちはだかる先輩のそばを早足ですり抜けた。

 一人になりたかった。今は先輩と一緒にいたくなかった。それなのに、「ほら」という声と共に先輩の腕が私の行く手を阻んだ。その手で差し出されたのは、私の荷物だった。
「え?」と戸惑いの目を向けると、

「一緒に帰ろ」

 先輩は、いつもと変わらない優しい微笑みと共にそう言った。だけどその微笑みさえ、今の私には受け入れがたかった。だから荷物だけ乱暴に受け取って、私は再び早足で店の出口に向かった。

「早矢香?」
「一人で帰れます。先輩、全然飲んでないんですよね。どうぞ、続けてください」
「俺ももういいから。飲み会はもともと好きじゃないし、そんなに飲めるわけじゃないし。あとのことは副部長に任せたから」

 先輩はそう言って、狭い通路を私と並んで歩いていこうとする。それを鬱陶しいと思ってしまうことに、胸がえぐられる。
 私はその場で立ち止まった。私に遅れて、先輩が少し先で止まった。

「……早矢香?」
「私は大丈夫なんで、先輩は戻ってください。荷物ありがとうございます」
「家まで送るよ」
「一人で帰れます」
「一人で帰すわけにはいかないじゃん。もう遅い時間だし」
「いいって言ってるじゃないですか。子ども扱いしないでください。私はもう、高校生じゃないんです」
「高校生だからとか、子どもだからとか、そんなんじゃないでしょ? こんな遅くに女の子一人、夜道を歩かせるわけにはいかないでしょ? 危ないじゃん」
「女の子なら誰でも送っていくんですか? それで家に泊めたりするんですか?」
「何言ってんの? もしかして、佐藤さんが言ってたこと? あれはそんなんじゃなくて……」
「別に、いいですよ。気にしてませんから」

 自分の胸が、いたく冷たい。先輩をこんな風にあしらうことに、不快感しかなかった。
 私は先輩から逃げるように居酒屋の狭い通路を一気に駆け抜けて外に出た。

 もう何も聞きたくない。何も言わせたくない。私も何も言うことはない。むしろ、これ以上言ってしまったら、私はきっと、どうにかなってしまう。自分の気持ちを抑えきれなくて、泣くじゃ済まなくなる。
 それなのに、先輩はあっという間に私に追いついて、居酒屋を出たところですぐに手を引かれた。

「早矢香、ちょっと待って。話を聞いてよ」
「話って何ですか? 弁解ですか? 言い訳ですか? そんなもの聞きたくありません」
「違うって」
「何が違うんですか? 彼女の私は家にも入れてもらえなくて、彼女でもない佐藤先輩を家にあげたことですか? それとも、佐藤先輩と私の違いですか? まあそりゃあ、佐藤先輩みたいな人に言い寄られたら、先輩も浮かれちゃいますよね? 私なんて相手にしてる場合じゃないですよね? 私みたいな子どもっぽいの、相手になりませんよね? そうですよね。恥ずかしいですよね。私が彼女なんて。こんなしょうもないことで嫉妬して、面倒くさくて、幼稚な私なんか。他の人と付き合った方がよっぽど……」
「いい加減にしろよ」

 自分でも思いもしないかった声が出たのだろう。先輩は一瞬はっとなってその口元を手で隠した。そして「ごめん」と小さく言うと、低く苦々しげな声で話し始めた。

「確かに、佐藤さんが酔っぱらって歩けなくなって、終電逃したから朝まで一緒にはいたけど、うちのアパートの駐輪場で介抱してただけだよ。だから家にあげてないし、他のメンバーも何人か一緒にいたし」

 淡々と語られる真実に、安心よりもなぜか虚しさの方が湧き上がってきた。先輩の行動は称えられるべきなのに、私にはどうしても拍手を送ることなんてできなかった。

「だからさ、早矢香のことどうでもいいなんて思ってないし、早矢香以外の人なんて絶対ないから、信じて……」
「わかってますよ」

 自分の体さえ震わせるような鋭い声に、先輩が「え?」と戸惑う表情と共にたじろぐ。

「そんなこと、私だってわかってますよ。先輩に限ってそんなことないことぐらい。他の人に目移りするとか、みだらな男女関係とか、遊び惚けてるとか。そんな人じゃないってことぐらい、わかってますよ」
「だったらなんでそんなこと言うんだよ。どうでもいいとか、他の人と付き合った方が良いとか。何で信じてくれないん……」
「ムカつくんですよ」
「……は?」
「誰にでも優しくする先輩のことがムカつくんです」
「優しくって、別に俺は……」
「それもわかってますよ。先輩はそんなつもりじゃないんですよね? わかってますよ、先輩の優しさは天然だって。もうこれはどうしようもないって。それで他の女子が勘違いするのは仕方のないことだって。その子たちが先輩を好きになるのはしょうがないって。だけど、それに気づかないで、相変わらず優しさ振りまいてる先輩に腹が立つんです。高校生の時から変わってないじゃないですか。わかりやすく胸なんか当てられちゃって、コップに口付けられて、名前で呼ばれて、人が好いことに付け込まれて家まで押しかけられて。何なんですか? どんだけ無防備なんですか? 鈍すぎますよ。その優しさが思わせぶりだって、言ってるじゃないですか」

 思いつく限りの言葉を言い尽くした後には、声はすっかりカラカラに枯れていた。だけど、目には不思議なくらい涙が湧いてきた。

「私だって、好きですよ。先輩の優しい所」

 言葉が、震える。

「誰にでも優しくできるところも、尊敬しています。みんなに慕われて、みんなから信頼されて。どんなことがあってもいつも笑顔で、人の悪口を言ったり嫉んだりもしない。無条件に優しい。そんな先輩が、私も大好きです。彼女として誇らしいです。そんな先輩の彼女になれて嬉しいです。だけど……」

 この続きを言ってしまったらきっと、幻滅されるだろう。だから、今までも思うことはあっても、決して口にはしなかった。ぐっと飲みこんで、諦めてきた。だけど、ずっとせき止められていた想いは、口から、目から、一気にあふれ出した。

「そんな先輩は、嫌です。みんなに優しい先輩は、嫌です。私にだけ、優しくしてほしいんです。私だけの先輩でいてほしいんです。だって私は、先輩の彼女なんですよ」

 溢れる涙に抗うように、私は言い切った。もうあとは、嗚咽が漏れるだけだった。

 泣きながら自分に幻滅した。
 自分がこんなわがままな人間だとは思わなかった。こんなの束縛だ。自分が誰かと付き合って、こんな束縛女になるなんて想像もしていなかった。お互いが自由に、今まで通り、人付き合いなんかも尊重しながらやっていけると思った。先輩となら、なおさら上手くやっていけるって自信があった。信じていた。それなのに、たかがコンパで、たかが美人でナイスバディ―の絡みで、たかが間接キスで、たかが呼び捨てで、たかが介抱で。こんなに心乱されるなんて。

 幼稚な自分に呆れてしまう。きっと先輩も、こんなことを言う私に、こんな姿の私に、ほとほと愛想が尽きただろう。こんな私の姿を、先輩がどんな目で見ているのか、確認するのも怖くて、顔を上げられなかった。
 情けなさと恥ずかしさに、ただ俯いて泣くしかなかった。ほんとはもう、この場から立ち去りたかった。だけど足に力が入らなかった。先ほどの言葉の勢いと泣くことに、すべての力を使い果たしたからだ。

「わかった。もういいよ」

 重たげな声とその言葉は、まるで、私の体をどんと突き放すような衝撃があった。
 その声が落ちてきたとき、私はぴたりと泣くのをやめた。そのかわり、口元が、後悔でわなわなと震えだした。

 やっぱり、言うんじゃなかった。わかってたのに。そんなわがままは、先輩を困らせるだけだって。呆れさせるって。嫌われるって。だけど、後悔したってもう遅い。

「俺が何を言っても、全部言い訳にしかならない。だからもう、信じてもらおうなんて思わない。ここで必死になって信じてって言っても、それこそ言い訳じみてて嫌だし」

 先輩の湿ったような弱々しい声に、少しだけ自嘲気味な笑いが含まれた。

「ごめん、信じさせてあげられなくて。彼氏、失格だよな。今まで嫌な思いさせて、ごめん。気づかなくて、ごめん」

 ああ、いよいよ、別れの言葉を突き付けられる。

 そう覚悟して、俯いた顔をさらに下に向けた。

「だけど……」

 思いがけない力強い逆接に、覚悟に滲んだ眉間の力がふっとほぐれた。

「忘れないで」

 その穏やかな響きに、絶望の中で迷子になり始めた心が、光を見つける。
 そっと迎えに来た手が、その道に連れ戻してくれる。

「俺が一番優しくしたい人は、一番大切にしたい人は、早矢香だよ」

 言葉と共に、優しい力で手が包み込まれていく。

「俺は、自分が持つ優しさのすべてを、いつも全力で、惜しみなく、早矢香に注ぎたいと思ってるよ。他の人にも同じように優しくしてるって言うけど、俺はそんなつもりはないよ」
 
 顔を上げると、先輩はばつの悪そうな顔を伏せて、ぼそぼそと話し続けた。

「俺は、誰にでも平等に優しくしてるわけじゃないよ。いつだって、不平等に早矢香が一番だから」

 握る手に、きゅっと力がこめられる。その力が、私の胸まできゅっと掴んでくる。

「……すみません」

 胸が押しつぶされる力に耐えられず、私は小さく謝った。

「なんで早矢香が謝るの?」と先輩が予想通りの質問を返す。

「先輩の気持ち、わかってて困らせるようなこと言ったから。ひどいこと言ったから。子どもみたいなわがまま言ったから。呆れちゃいますよね、こんな私。先輩をとられたくないって、ほんと子供みたい。鬱陶しいですよね。嫉妬深すぎて、もはや束縛ですよね」

 言っててまた情けなくなってくる。情けなさを通り越して、呆れてくる。惨めすぎて、空しすぎて、こんな自分の姿に笑えて来る。

「いいじゃん、束縛」

 その言葉に、笑う準備をした口元がぽかんと歪んだ。

「は、はい?」
「俺も、束縛したい」

「え?」と思った瞬間には、体を引き寄せられていた。すると、鼻先が一瞬で先輩の匂いと温もりでいっぱいになった。

「あ、あの、先輩?」
「他の男子となんて、話さないで」
「え?」
「みんなの前でかわいい格好しないで。かわいい仕草も、笑顔も、見せないで。俺の前だけにして。俺だけに見せて」
「先輩、何言って……」
「目が離せないんだよ、早矢香から。高校の時よりずっとかわいくなって、嬉しくてつい見惚れちゃう反面、他の男子の視線とか評判が気になっちゃうんだよ。彼氏アピールしとかないと、早矢香に手出す奴とかいそうで、気が気じゃないんだよ、俺だって。モヤモヤするんだよ。今日だって、早く連れて帰りたかったんだよ」
「え?」

 思わず、先輩の胸から顔を出してその顔を見上げた。先輩は一旦私を体から離すと、気まずそうな顔をして話し続けた。

「四月は忙しくて、ずっとバタバタしてたから、あんまり話したり会う機会がなかったし、二人で話したいなってずっと思ってて。今日もタイミング見計らって話に行こうと思ったけど、なかなか話しに行けなくて。だからさっき、早矢香がトイレ行こうとした時チャンスだと思って。ついて行ってそのまま二人で抜けようかなって考えてて」
「え? でも、あれは、酔っ払いにからまれないようにって」
「もちろんそれもあるけど、まあ、そんなのは口実だよね」

 と先輩は不敵な笑みを浮かべる。

「人数多いしさ、二人ぐらい抜けてもバレないじゃん?」なんて開き直る先輩に、「部長が抜けたら、誰でも気づきますよ」なんて冷ややかに突っ込んだ。先輩は気恥ずかしそうに私から目をそらした。

「まあ、そんな俺の勝手な考えで早矢香までからかわれたのは本当に申し訳なかったけどさ。でも、俺も、嫉妬してるよ。束縛したいんだよ。俺だけを見てほしいし、俺だけに笑いかけてほしい。早矢香の全部を、俺だけのものにしたい」

 淡々と話す言葉には、切なさが確かに滲んでいて、その言葉の一言一言に、その声の一音一音に、胸がぎゅっと掴まれる。

「早矢香の全部が、欲しい」

 小さな声で最後に呟かれた言葉に、私の胸が、体が、びくびくと疼いた。

 熱く揺れる先輩の瞳と合った。唇を濡らして、次の言葉の準備をする。それなのに、薄く開いた口からは、浅い呼吸が繰り返されるばかり。

「あ、あの……」
「ああ……ごめん、変なこと言って。戻ろうか? せっかくの新歓コンパだし。早矢香も、みんなともっと話したいだろうし。人数多い部活だからさ、埋もれないように、早矢香のことももっとアピールしてさ、知ってもらってさ、早矢香もみんなと仲良くなって、楽しんでほしいしさ」

 先輩はいそいそと店の方に足を向けた。私も「ああ、はい」なんてあたふた返事をしながらその背中を追おうとした。だけど、目の前で、先輩はぴたりと止まった。

「やっぱり、嫌だな」

 その背中からぽつり声が聞こえた。

「早矢香のこと知ってほしいけど、みんなと仲良くなってほしいけど、音楽楽しんでほしいけど……」

 その続きを、先輩は言いよどんだ。先輩の言いたいことが、気持ちが、痛いほどわかるから、私は先輩が言いたいことの続きを、自分の口から伝えた。

「先輩にしか、見せませんよ」

 驚いた顔で、先輩が振り返った。
 指先を震わせながら、先輩の袖を掴みに行く。顔なんて見られなかった。

__こんなこと女子が言ったら、男子は引くだろうか?

 不安だった。恐かった。胸の鼓動やあらゆる脈が、体をぐわんぐわん揺らしてくる。湧き上がる思いが、あふれる気持ちが、震えながら口までやって来る。

「知ってほしいです。私の全部を。先輩に、見せたいです。見てほしいです。先輩だけに」

 空気が、一瞬しんとなった。
 私はゆっくりと視線を上げた。そこには、先輩のいつにない強い眼差しが待っていた。先輩の口元が、微かにぐっと横に引かれた。ごくりと飲み込んだ唾が、喉元を通っていく。

 言葉より先に、目と目が何かを語り合う。時間をかけて。

 私たちの沈黙の隙間を、春の風が縫うようにひらひらと過ぎていく。散った桜が夜風に流されて、まるで私たちの行き先を示すように、一方向にコロコロと転がっていった。


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