もう一度、君に恋する方法


 いつの間にか眠っていたことに気づいたのは、目が覚めた時だった。
 背中に伝わる人肌の温もりが心地いい。先輩の寝息が、つむじ辺りの毛をゆらゆらとゆする感じがした。
 私の体を包みこむように先輩の片腕が回って、もう片方で肘枕を作って先輩は眠っている。息遣いと胸の動きが、「すやすや」という言葉にぴったりだ。
 その寝息を聞きながら、昨夜のことを思い出していた。耳にはまだ、先輩の甘苦しい声がとどまっていた。荒い息の中に混ざる先輩の声は、いつもよりぐっと低くて、吐息と一緒に吐き出されるかすれた声は色っぽくて、その声で名前を呼ばれると、体がいちいちぞくぞくと疼いた。その声を思い出すと、まるで体が覚えているのか、体の下の方からツンと突き上げるような感覚に襲われる。
 思い出した感覚は胸が詰まるくらい苦しくて、思わず布団を握り締めて、そのままうずくまった。

 気のすむまで布団の中で甘い回想に浸ったあと、そっと布団から顔を半分だけ出して辺りを見渡した。
 部屋の中はまだ暗かった。だけど真っ暗という感じではなく、カーテンの隙間から光が漏れ出して、昨夜見えなかった部屋の様子がよく見えた。
 私が寝ているすぐそばに机があって、そこにはデスクトップパソコンが置かれている。部屋の真ん中にローテーブルがあり、そこには昨日、先輩の家に行く途中で立ち寄ったコンビニで買ったぶどう味の炭酸ジュースとブラックの缶コーヒーが、未開封のまま置かれている。床には教科書やプリント類が散らばっていて、カーテンレールにはハンガーが大量にかけられている。
 テレビ電話の画面越しに見た先輩の部屋とは、少し違うような気がした。もっと物が少なくて、きれいに整っていたように記憶している。

__これが、先輩の、リアル部屋。

 今何時だろうと、半分体を起こした。
 すぐそばの机の上が少しだけ見えた。そこには、封筒サイズの小さな茶色の紙袋が、封を開けられた状態で直立していた。その袋に、見覚えがあった。
 昨夜コンビニに寄った際、先輩が持っていた袋だ。
 先輩は飲み物を買ってコンビニを出た後すぐに、「一瞬で帰って来るから」とたった一人で、再びコンビニに入った。私が一緒に入ろうとするのを、先輩はなぜか遮った。そして本当に一瞬という言葉にふさわしい速さで先輩は戻ってきた。その手に、この茶色の紙袋が大事そうに携えられていた。
「何ですか?」と聞いても、「え?」なんて大げさに驚くだけで、先輩は教えてくれなかった。ただぶつぶつと「これは、その……、あれだよ」なんて、全然要領の得ない、ヒントにもならないことを呟くだけだった。

「これは、その……、あれだよ」の答えが、今目の前にあった。
 茶色い袋の傍らには、ビリビリに破いた薄いビニールと、ふたが開けっぱなしの箱があった。開け放たれた口から中身が飛び出ている。
 コンタクトが乾いて視界が少し霞むのをこすりながら、私はその箱を手に取った。そのパッケージを見つめるうちに、徐々に視界がはっきりしてくる。はっきりしてくると同時に、私の瞳孔が見開かれる。
 いつの間にか、前のめりになるようにその箱を見入っていた。それが何なのか、中身のその形と、パッケージに書かれたいろんな情報で理解した。初めて見る『あれ』に、見てはいけないものを見てしまったような戸惑いを覚えた。

「早矢香?」

 ものすごいタイミングで先輩が起きだしたのに驚いて、「うわあ」なんて言いながら、箱を持ったまま布団の中に隠れた。

「どうした? もしかして、体、調子悪い?」

 深刻そうに先輩が聞いてくる。

「いえ、問題ありません」とまるで司令官に報告するように、布団の中で滑舌良く返事をした。

「ほんとに大丈夫なの?」

 不審がる声と共に、布団がめくられそうになる。その力に屈しまいと、布団を引っ張って必死で抵抗した。しかし、「早矢香?」といよいよ不機嫌な声で、半ば強引に布団がはぎとられた。
 すぐさま先輩の視線が私の手元に注がれた。先輩はぎょっとした顔で、私の手元をまじまじと見てくる。
 気まずい空気が、私たちを包んだ。

「……何もってんの?」
「いや、これは、その……」

 名前は知ってる。だけど、男の人の前でその名称を言うのははばかられた。
 すると先輩も気まずそうに、だけどふっと苦笑いで言った。

「まいったな。こんなことならさっさと片付けとけばよかった」

「なにぶん疲れてたからね」なんて、どこかほくほくとした表情で言った。だけどその表情には、疲れというより充実感が滲んでいた。
 先輩はさりげなく、私の手元からすっとその箱を取り上げた。文字通り手持ち無沙汰になった私は、恥ずかしさを誤魔化すために早口で話した。

「こういうのって、コンビニに売ってるんですね。すみません、私、何も考えてなくて。恥ずかしかったですよね、こんなの買うの」

 そんな私とは対照的に、先輩は落ち着いて、さらりと言った。

「恥ずかしくなんかないよ」
「……え?」
「早矢香のこと、大事にしたいから」

 そう淡々と言いながら、先輩はやっぱり淡々と箱を直していく。その姿に、見惚れた。
 決して惚れ惚れするような体格ではない先輩の裸姿に、男らしさを感じた。堂々とした、大人に見えた。

 先輩の行動は、男女間の良好な関係のためには常識的な買い物だったのかもしれない。マナーなのかもしれない。だけどそれを当然のようにやってのける先輩を、私は偉大だと思った。そしてこの人が自分の彼氏であることを、改めて誇らしく思った。
 そう思う反面、複雑な気持ちにもなった。何も考えずに流れのまま行為に及んだ私と、理性を保ちながら冷静に常識をもって行動した先輩。そこに、私と先輩の歳の差以上の心の成長の差を思い知らされる。

__私も、大人になりたい。

 そう思うと同時に、昨日の話が頭をよぎった。
 佐藤先輩が、先輩の家まで来たという話だ。
 なぜこんな時にそんな話を思い出したのかはわからない。もう気にすることなんかない。誤解だったんだし、仕方なかったんだし。もう終わったことだし。
 だけど不意に思い出された記憶がこびりついて、聞かずにはいられなくなった。
 今さらこんなことを聞いてどうするんだと思うけど、私はおずおずと先輩に聞いた。

「あの、先輩。聞いてもいいですか?」
「……ん?」
「今まで私を家に連れて行かなかったのは、私が高校生だったからですか? その……こういうことをするのはまだ早いとか、そういうことですか?」

「あー……」と先輩はぽかんと口を開けて遠くを見つめた。そしてしばらくぼんやりしてから、「うーん、まあ、そう、かな」と歯切れ悪く答えた。
 自分で聞いたくせに、その答えに落ち込んだ。

__やっぱり、子ども扱いされてたんだ。

 だけどそう思った矢先、

「いや、違うか」

 と、今度はさらりと否定の答えが返ってきた。そして先輩は、ふっと笑ってから言葉を続けた。

「怖かったから、かな」
「何が、怖いんですか?」
「うーん、だから、その……上手くできるのかな、とか?」

と、先輩は照れくさそうに言った。

「そりゃあ、俺だってさ、手順とかはなんとなくわかってるつもりだよ。でも、実際そういうことするのは初めてだし、上手くできなくて、嫌われたらいやだなとか、幻滅されたらどうしようとか。そういうこと考えてたし。初めてって言っても、そこは男だからさ、やっぱり、カッコつけたいっていうか。カッコ悪いとこ、見せたくないというか。だからさ、昨日これ買う時、恥ずかしくなかったって言ったけど、ほんとは、覚えてないんだ、その時のこと。頭がいっぱいいっぱいでさ。人の目気にしてる場合じゃなかったし、恥ずかしさより、ちゃんと準備しておけばよかったって、後悔の方が大きくて」

 先輩は気恥ずかしそうに、私から目をそらし、歪な笑いを浮かべて言った。だけど次には真剣な顔を取り戻して、話を続けた。

「それにさ、俺は年上だし、先輩だし。そういう立場の俺が、焦ったり、自分の感情のままに動いちゃいけないと思ってた。それで早矢香に無理させたり、傷つけたりしたら、嫌だし。順番とか、タイミングとか、早矢香の気持ちとか、ちゃんとしないとって。俺だってさ、早矢香を家に呼んだり、泊めたりしたいなって思ったよ。帰ってほしくないし、ずっと一緒にいたいって思ってたよ。これは我慢じゃなくて、先輩として、年上として、ちゃんと……」

 そこで先輩の言葉が止まった。そうかと思ったら、ふっと笑みをこぼして、「はあ」天井に向かって長いため息をこぼした。

「先輩って、面倒くさいな」
「え?」
「先輩だからちゃんとしないとっていうのはさ、たぶんクセなんだよね。昔からの。俺ずっと部長みたいなことやってきたからさ。中学も、高校も、大学も。だから、こうやって早矢香と二人でいるときも、頭の切り替えができないんだよ。彼女とはいえ、いつも早矢香を先輩目線で見ちゃうんだよ。みんなといても、二人でいても、先輩・後輩の延長線上にいる感じがぬぐえないというか。「先輩、先輩」って呼ばれて頼られたりするのは、嫌じゃないけどね」

 そんな話を聞いて、急に切なくなった。
 確かに、そうなのかもしれない。
 先輩は私にとって「彼氏」であり、「先輩」だった。もっと恋人っぽくなりたいとか、彼女として見てほしいとか、そんなことを思っている反面で、私は「先輩」として頼ることも多かった。いつまでも高校の吹奏楽部での関係を引きずっていた。そして、大学に入った今も。
 そういった日常の些細な立場や関係性が、時に大きな壁になったりもするのだということを初めて知った。

 私が「子ども扱いしないで」と言うのと同じように、先輩も「先輩扱いするなよ」って、心のどこかで叫んでいたのかもしれない。そんなことを想像して申し訳なくなった。

「俺、初めてかも。先輩やめたいって思ったの」

 可笑しそうに言う先輩の言葉を、私はぼんやりと聞いた。そして、無意識のうちに言っていた。

「……じゃあ、先輩、やめますか?」
「え?」

 先輩のきょとんとした顔と出会った。その瞳に映る私も、同じようにきょとんとしていたと思う。だけど私の口からは、次の言葉がきちんと出てきた。その声には、確かに緊張が混ざっていたけど。

「私も名前で呼んだら、私のことも、後輩としてではなく、彼女として、見れますか?」

 先輩は呆然としながら、少しだけ体を起こした。そして私の真上まで来て視線を合わせると、

「呼んで」

 真剣なまなざしで、そうぽつりとこぼした。

 要望に応えるべく、ごくりとつばをひとつのみこんだ。
 だけど次には、思うように声が出てこなかった。

 ただ名前を呼ぶだけなのに、こんなに緊張するものなのか。
 言おうとすると、唇が震え始めて、喉が締め付けられる。それを振り絞った。

「こう……すけ……」

 顔中に熱が集まるのを感じた。恥ずかしい。たったこれだけのことなのに。

 恥ずかしさに先輩の視線から逃げるように顔をそらすと、

「もう一回」
「え?」
「もう一回、呼んで」

 先輩の低い声が、落ちてくる。私は目をそらしたままもう一度呼んだ。

「浩介」
「こっち見て言って」

 視線を合わせると、胸がどきどきと鳴った。

「……浩介」
「もう一回」

 そう催促する先輩の手が、布団の中にするりと潜り込んでくる。私の体の上をそうっと這っていく感覚に、体がぞくぞくと疼いた。

「ちょっ……先輩」
「先輩は、もう卒業」

「ちゃんと呼んで」と耳の輪郭をなぞる先輩に、いつもの穏やかさはなかった。
 荒い息遣いが、ほんのり濡れた耳元を撫でていく。

「……浩介」

 先輩の名前を呼ぶ私の声が甘くとろけだす。
 私の体を、甘く、優しく、落ち着きなく動き続ける先輩の指先を、「くすぐったいですよ」なんて嬉しいくせにあしらうと、「ついでに敬語もやめない?」なんて言いながらくすりと先輩は笑って言った。
 その口元の動きさえ、私の体が敏感にとらえる。頭がまた、ふわふわし始める。

「ほら、早矢香」

 ぼんやりした頭で「え?」と尋ねると、先輩の優し気で、だけど意地悪そうな瞳にぶつかる。

「もう一回。もう一回、呼んでよ」

 その言葉に促されて、私の口元は誘惑されるように動く。

「浩介」

「もう一回、もう一回……」と先輩は、何度もそう言った。何度もそう求めた。そのたびに、私の口元から、甘苦しい吐息と共に「浩介」の名前が吐き出された。

 名前を呼ぶたびに、全身のあらゆる細胞が心地よく震える。温かなぬくもりに包まれる。その温もりの中で感じるのは、大切にされているという、確かな手ごたえ。

 そのその名前を呼ぶだけで、私は満たされた。
 その視線が、その声が、その吐息が、その温もりが、すべて私に注がれるから。

「浩介」

「もう一回」

 飽きるまで、私たちは何度も、お互いの名前を呼びあい、心からあふれ出る言葉をつぶやき、何度も、体を重ねあった。


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